第百二十夜 種田山頭火の「母」の句

  うどん供へて、母よ、わたくしもいただきまする 『山頭火全集』

 句意は次のようであろう。
 
 お母さんが亡くなって、もう四十七回忌となりました。わたしも五十七歳になりましたよ。流転の旅にいつもついてきてくれてありがとうございます。今日はお供えするお米がないので白いご飯が炊けないので、うどんを茹でました。わたしも一緒にいただきます。
 
 掲句がいつ頃に詠まれたのか確認しようと、大山澄太著『俳人山頭火の生涯』(彌生選書)を読んで思い出したが、山頭火の最晩年の作であった。山頭火は十一歳の時に母の自殺した姿を見た。その母の四十七回忌を、この春三月六日、この庵で迎えてひとり淋しく読経をした。山頭火は、行乞流転の旅の間は背中の荷物の中に入れ、庵では仏間の片隅に置いて、ずっと母の位牌とともに過ごしてきた。今年の命日は、米が一粒もなくお酒もなかったので、隅の箱から乾しうどんの半束ほどを探し出して茹で、お位牌の前に供えたのであった。
 母の四十七回忌を済ませた山頭火は、其中庵を整理して最後の四国へ渡る前、大山澄太の家に立ち寄って次のように話したという。
「母が井戸から引き上げられた時、わしは冷たいぬれた死屍にすがりついた。あの死に方では母は成仏していないと思う。好んでお寺巡りをしたのも母のためなのだ。いつも笈(おい=行脚僧が仏具や衣類を入れて背に負う箱)に納めて旅して来た。」

 種田山頭火(たねだ・さんとうか)は、明治十五年(1882)―昭和十五年(1940)、山口県防府市の生まれ。山頭火十一歳の時、父の遊蕩で母は井戸で投身自殺。大正二年、自由律俳句の荻原井泉水に師事、「層雲」に投句。大正五年、傾いた種田家を立て直すための酒造業も破綻。同年に結婚。大正十三年、出家得度して熊本市外の観音寺の堂守となるも、翌十四年には行乞流転の旅にである。

 山頭火の句は、やさしい言葉で詠まれた自由律。歩く視点で自然や自己を捉え、歩くリズムで詠んだ俳句とも言われる。〈あるけばかつこういそげばかつこう〉〈うしろ姿のしぐれてゆくか〉〈てふてふひらひらいらかをこえた〉〈分け入つても分け入つても青い山〉など、独り言のようなことばは人の心にすっと入り込む。

 もう一句見てみよう。

  お墓したしくお酒をそそぐ
  
 小豆島の尾崎放哉の墓所を尋ねたとき情景のような気がする。生前に二人が会ったことはないけれど、放哉と山頭火の二人には共通する点が多い。片や東大、片や早稲田と最高の教育を受けていたのに、全てを抛って、俳句三昧の道を歩いたこと、酒をこよなく愛していたことなどである。山頭火は、南郷庵の放哉句碑を撫で、西光寺の墓所にある放哉の墓を詣でた。この時、お酒を注いだのだろう。