第百二十一夜 下村ひろしの「茂吉忌」の句

  茂吉忌のオランダ坂に蝶生る 『西陲集』
  
 長崎市は、結婚し、高校の新米教師として三年間を過ごした懐かしい街である。大学卒業後に親元を離れた私は、まさに初蝶のごとく知らない街を探訪した。山があり海があり、異国情緒が残り、原爆記念館では写真に慄き、キリシタン殉教の地であり、「長崎くんち」祭では、オランダや隣国の中国を身近に感じるなど、多くのことに触れた。
 
 掲句をみてみよう。
 
 「茂吉忌」は斎藤茂吉のことで二月二十五日が忌日。茂吉は、大正六年から暫く現長崎大学医学部の精神科の教授として勤務していた。掲句の作者の下村ひろしも長崎大学卒で医師。同じ長崎大学、同じ街に一時期でも大文学者の茂吉がいたことは長崎人の誇りであった。
 オランダ坂は、長崎湾を見下ろす小高い丘の上に続く坂で、途中には日本初の女学校・活水学院があり、その上に、グラバー邸など当時日本に来ていた外国人居留地がある。現在はグラバー園として邸内の見物もできる。長崎湾の反対側は三菱造船所があり、大型船が浮かんでいたりする。

 俳人下村ひろしは、茂吉を思いながらオランダ坂を散策したのだろう。折から、生まれたばかりの、美しい翅を、たどたどしく動かしながら翔んでいる初蝶に出合った。 「茂吉忌」も「蝶」も春の季語。長崎の春は、東京と比べるとかなり早い。二月下旬のオランダ坂は眩しいほどの陽光に溢れていたことだろう。
 
 もう少し、長崎ならではの作品をみてみよう。

  たびの足はだしの足の垂れて冷ゆる 『西陲集』
  凍焦土種火のごとく家灯る 下村ひろし 『石階聖母』
  
 一句目、長崎駅前の西坂公園にある日本二十六聖人殉教句碑であろう。豊臣秀吉によるキリシタン禁止令により、処刑されたフランシスコ会宣教師六人と日本人信徒二十人のひが処刑された。その地に昭和三十七年、舟越保武氏作の二十六聖人等身大のブロンズ像嵌込(はめこみ)記念碑が建立されている。「たびの足」は足袋を履いた日本人で、「はだしの足」はフランシスコ会の人。首吊刑であったのか、全員の足が垂れ下がったままだ。さぞかし冷えて寒かろう。
 二句目、原爆の落とされた後の浦上地区の冬の景だ。一面焼け野原であった地にもぽつりぽつり家が建ち始めた。夕には灯がともり、それは焦土に消え残った種火のようだと詠んだ。

 下村ひろし(しもむら・ひろしは、明治三七年(1904)―昭和六十一年(1986)、長崎市の生まれ。医師。長崎医科大学卒。在学中、田中田士英の指導で俳句を始める。昭和八年、「馬酔木」に入会し、水原秋桜子に師事。昭和二十二年「棕梠(しゅろ)」を創刊・主宰。終生まで長崎で活動したと見られ、初期より異国情緒のある句を詠む。昭和五十二年、第二句集『西陲集』により俳人協会賞を受賞。