第百二十二夜 尾崎放哉の「一」の句

 鑑賞をしてみよう。
 
  一日物云はず蝶の影さす

 酒が好きで、酒の数々の失敗で会社を追われ、妻に去られ、寺院の寺男として行事のあるとき以外は誰とも話すことのない生活であった。この句の「蝶の影さす」から、放哉の様子を伺いにやってきた蝶の優しさが思われ、放哉も、さっと過ぎった蝶の影に、じつは癒やされていることを感じている。一人だけど一人ぽっちではなかった。

  草の穂の一匹の蟻にも大空

 草の穂を登ってゆく一匹の蟻がいる。穂を食べる風でもなく、穂を咥えて巣穴にいる女王蟻へ捧げにゆく様子でもない。上へ上へとゆき、ついに草の穂の天辺に到着した。蟻は、頭を上げ、頭をめぐらした。地面を這いずり廻っていた時には気づかなかった大空が、草の穂の上からよく見える。「そうか、蟻くんも大空が見たかったんだ」と、放哉もはるかな大空を見た。

  海少し見える小さい窓一つもつ

 放哉は海が好きであった。いくつもの寺院で寺男として働いてきたが、酒が原因で寺から追われたこともあり、廃寺となった寺もあった。最後は師の井泉水のつてを頼って、小豆島の西光寺の南郷庵に導かれるようにして住んだ。勿論、海辺である。「少し」「小さい」「窓一つ」に、放哉は心がやっと落ち着くのを感じた。

  こんなよい月を一人で見て寝る

 この作品を読むと、放哉の人恋しさが見えてきそうだ。他人と上手くやっていくことは苦手だけれど、一人は淋しいに決まっている。放哉は、「層雲」の師井泉水、俳句仲間と手紙を多く交わしていたという。人の心に染み入る放哉の俳句は、真から孤独でなければ、孤独のエキスパートでなければ、生まれることはない。放哉は、自らを大愚と言いつつ、俳句に生き切ったという誇りはあったに違いない。

  咳をしても一人

 エリートサラリーマンから急に一燈園での肉体労働が始まり、放哉は身体を壊し、肋膜炎を患うようになった。咳が出るのはそのためだが、井泉水に医者を勧められても断り、町の居酒屋で倒れるまで飲み、友にねだって送ってもらったのは、かつて吸っていた英国タバコのスリーキャッスル。肺に悪いことは重々承知の上だ。命がけで生きた詩人であった。享年41。死因は癒着性肋膜炎湿性咽喉カタル。戒名は大空放哉居士。
 
尾崎放哉(おざき・ほうさい)は、明治十八年(1885)―大正十五年(1926)、鳥取県鳥取市生まれ。帝大(現東大)法学部卒。 東洋生命保険会社のエリートコースを進んでいたが、酒癖の悪さから、会社も妻も全てを放棄せざるを得なくなった。俳句を始めたのは「一高俳句会」に参加してからで、荻原井泉水を知り、高浜虚子、内藤鳴雪、河東碧梧桐らが師匠格として同席したという。一時期、「ホトトギス」に投句。有季定型の俳句も詠んでいた。
 種田山頭火と並び、自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人である。句集『大空』は没後、師の荻原井泉水編による。