第百二十三夜 浦部 熾の「震災忌」の句

  三月やあの日そののち震災忌 「花鳥来」、百句集「花屑」

 浦部熾(うらべ・おき)さんは、深見けん二主宰の「花鳥来」でご一緒するようになった同い年の仲間。埼玉県人として六十余年を過ごした熾さんが、お姉さんの住む盛岡に転居すると聞いて「花鳥来」の連衆の誰もが仰天した。だが、新天地での自然も新しい仲間との句会や吟行が、どれほど心わくわくさせたか「花鳥来」の作品に見ることができた。盛岡に移転して一年後の平成二十年、熾さんに会うことも目的のドライブ旅行の帰りに立ち寄り、テーブルで一服し、中津川の河原を散策した。

 掲句の鑑賞をしてみよう。

 「あの日」とは、平成二十三年三月十一日午後二時四十六分に起きた東日本大震災の日だ。盛岡に住んで四年目に遭遇した。入浴中であったご主人は飛び出るや「おまえどこにいるんだ」、熾さんは「テーブルの下」。大地の揺れが収まり、夜中の二時頃に空が晴れ、窓ガラスから見る暗闇の街並の上には驚くほどの大粒の星があった。普段見た事もないほど星粒がびっしり瞬いていたという。この記事を俳誌「花鳥来」で読んだ。テーブルは、三年前にお茶をしたときのものだ。
 この作品に、人間というのは、「あの日そののち」という連続の中にいるものだということを思った。一日一日をどのように生きてゆくかであろう。
 「花鳥来」に掲載された盛岡からの作品に、次の作品があった。

  明日のこと語らず言はず花の昼
  余震なほ白鳥帰る空があり
  旱星ほほゑんでゐてみな遺影

 一句目、大地震が過ぎて間もなく桜の開花となった。花の下には多くの人たちが集まってきたが、誰も、今のことも明日のことも話さない。熾さんも言わない。詮無いことだから。一方、どんな場合であっても自然の営みは粛々と季節の移ろいを見せてくれる。今日は、あの日から九年目だ。今も、東北の人たちは復興の力をまざまざと見せてくれている。
 二句目、マンション真下の中津川で晩秋から仲春まで白鳥を間近にする作者は、北帰行の棹を触れんばかりに仰ぐ。「3月11日」を過ぎても余震は頻繁にあった。
 三句目、旱星(ひでりぼし)は、炎天続きの夜にひでりを象徴するような星のこと。お盆に飾られた遺影はみな微笑んでいるが、夜空に輝いているのは潤むような星ではなく旱星であった。

 熾さんは、昭和二十年(1945)埼玉県浦和市の生まれ。昭和三十六年、高校時代の「つくも句会」で文芸部顧問の栗原火打に師事。俳号「熾」は師の俳号「火打」に呼応したもの。昭和五十三年、深見けん二に師事し、平成二年より「花鳥来」会員、黒田杏子主宰の「藍生」会員。以来六十年の俳歴の人。
 「花鳥来」創刊後、初めて出合ったのが北区王子での吟行句会。誰にも向けられる温かな笑顔の人というのが第一印象であった。
 熾俳句は大自然を、目、耳、舌、鼻、皮膚の五感に心を澄ませた作品が多い。一句を詠むに当たっての対象の摑み方が鋭く勢いがあるのに繊細である。平成七年に刊行の、句集『春陽』より紹介する。

  いぬふぐり幸せなんてここにある
  眠り足り朝のトマトの甘きこと