第百二十六夜 深見けん二の「初桜」の句

 今日は、みぞれ混じりの寒い日であったが、気象庁は東京・靖国神社にある桜(ソメイヨシノ)が開花したと発表した。昨年より七日も早い開花である。師深見けん二の代表句の中の、「初花」「薄氷」「下萌」「蝶」の四句がどのように生まれたのか見てみよう。
 
  人はみななにかにはげみ初桜 『花鳥来』
  
 掲句は、私には心象的な表現に思えたが、繰り返し口ずさむうちに、また、再び初桜の季節になると必ずのように思い出す作品であり、励ましてくれるような、背を押してくれるような作品である。
 著書『折にふれて』には、市ヶ谷の九段通りの初花であるという。古舘曹人、斎藤夏風、黒田杏子といった方々との「木曜会」があり、その道すがらにたくさんの句を作った。「初花」「初桜」という一つの季題を、嘱目で見ながら作っているうちに、授かったとしかいいようのない句なのであるという。その頃から、俳句は「重ねる、授かる」ものではないかと思うようになった、と書かれてある。
  
  薄氷の吹かれて端の重なれる 『余光』
  
 石神井公園の奥の三宝寺池の西側の木陰になっている日の当たらないところの、冬には氷が張り、春には薄氷が午前中は溶けないような場所である。
 著書『折にふれて』には、句会の兼題のために作りに行き、これぞと思う句が出来なかったので翌日も出かけた。それでも暫くは願った動きはなかったが、そうしている間に風が吹き、すこしずつ薄氷が動いたという。頭では想像できないようないろいろの動きをするのを見ていると、いつかその動きに心が奪われ、いくつか句を手帳に書きつけたその中にこの句があった。どうして「端」という言葉が出たのか、これも授かりものとしか言いようがなかった。この頃から「授かる」のは言葉だと思うようになったと、述べている。
 私は、一句を仕上げる辛抱ということをつくづく感じた句である。
 
  下萌や潦にも渚あり 『蝶に会ふ』

 犬の散歩で毎日歩く畑と林の小道は、雨が降ると潦(にわたずみ=みずたまり)ができる。覗いてみると、朝は雲の流れが見え、夜は月と雲の流れが見える。冬には樹々が潦の底に広がっている。その潦にも渚があるという。この句で知ったことだが、下萌の頃には小草が潦に映って揺れていることに気づいた。
 けん二は、小草の生えている潦の縁を「渚」と呼んだ。小さな水溜りである「潦」に「渚」があると表現するのは詩人だ。

  蝶に会ひ人に会ひ又蝶に会ふ 『蝶に会ふ』

 おそらく吟行での景であろう。句会が始まるまで、みな散らばって必死に季題を探して句を作る。そのような時、蝶に出会い、歩いてゆくと連衆に会って軽く会釈をして別れる。また蝶に出会ったりする。
 この作品のよさは、登場する「蝶」と「人」のリフレインの効果であると思う。ひらひらと飛ぶ蝶、初蝶かもしれない。ゆらゆらと飛ぶ蝶は、まさに春の権化に違いない。