第百二十九夜 正岡子規の「糸瓜」の句

 明日は、令和二年「彼岸の入」の日。今年は温かい冬が続きいよいよ春到来と思われた頃から、世界中でコロナウィルスの大流行となり、何だか落ち着かないまま、子規の母の呟いた「毎年よ彼岸の入りに寒いのは」の通りの彼岸の入となった。
 春は一進一退だが、それでも冬は必ず春となり、コロナも終息するだろう。
 子規の亡くなったのは九月十九日だが、彼岸の句を思い出し、病に苦しんだ短い一生を送った子規の作品に触れてみたくなった。
  
  糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
  
 作品をみてみよう。
 
 亡くなる前日の十八日は、碧梧桐が介護の番である。子規が仰向けのまま書けるように、板に唐紙を張ったものが常に用意されていたが、この日の午前十時頃に書きたそうにしたのを見て、妹の律が板を持ち碧梧桐が墨を含ませた筆を子規に持たせた。
 真ん中に〈糸瓜咲て痰のつまりし仏かな〉と書き、右に〈をととひの糸瓜の水も取らざりき〉、左に〈痰一斗糸瓜の水も間の合はず〉の三句の絶筆ができた。
 子規庵の、かつて子規の蒲団が敷きっぱなしの六畳間に、この色紙が掛けられている。庭には糸瓜の棚もある。糸瓜の茎の切っ先を瓶に入れておくと、糸瓜水が溜まる。化粧水として有名だが、また、痰のよく切れる咳の薬としての効能がある。
 
 句意は次のようであろうか。
 
 庭の糸瓜の花も咲いているし、糸瓜の水も取らないまま溜まっているのに、わたしは、こうして痰がつまってしまった仏になってしまったのだろうか。

 子規は、最期の力を振り絞った。仏になった己を憐れむでもなく悔やむでもなく、苦しみの中で生き切った自分を肯定しているようである。絶唱の三句ともが穏やかさに満ちた作品だからであろう。「主観は嫌いだ」と言っていた子規が、邁進した俳句の道そのままの写生句であった。

 正岡子規(まさおか・しき)は、慶應年(1867)―明治三十五年(1902)、愛媛県松山市生まれ。俳人、歌人。肺疾患からカリエスを発症。「鳴いて血を吐く子規(ほととぎす)から「子規」と号した。子規の俳句開眼は古俳句の俳句分類に着手したことに始まる。俳句革新は、1・月並俳句を打破し、2・画家の中村不折に啓発された「写生」を俳句に取り込み、河東碧梧桐と高浜虚子という双璧の弟子とともに実作を重ねながら革新の道を進めた。

 没後、松山子規会叢書として刊行された越智二良著『子規歳時』より、作品をみてみよう。
 
  イモウトの帰り遅サヨ五日月
  小夜時雨上野を虚子の来つゝあらん 

 一句目は、妹の律の帰宅の遅いことを心配した句。『仰臥漫録』に、妹律の看護への八つ当たりが書かれているが、一日も律がいなかったら生きていけなかった。
 二句目は、「ホトトギス」の編集やら順番の看病やらで通ってくれる虚子を待っている句。子規は「吾が命二子(碧・虚)の手に繋りて存するものゝ如し。吾病める時二子かたわらに在れば苦も苦しからず死も亦頼むところあり」と『松羅玉液』に書いた通りで、最期まで碧梧桐と虚子は子規の双璧の弟子であった。