第百三十夜 山口青邨の「たんぽゝ」の句

  たんぽゝや長江濁るとこしなへ 『雪国』

 作品をみてみよう。

 長江は、チベット高原を水源地域とし中国大陸の華中地域を流れ東シナ海へと注ぐ河川。長江の最下流部を揚子江と呼んでいるが、揚子江から支流の黄浦江を遡ったところに上海の港がある。
 青邨の乗った榛名丸は、出航後に上陸する初めての外国である上海に着いた。上海では「ホトトギス」の俳人による歓迎句会が催され、翌日は宝山城へ案内された。城外には揚子江が広がっていて、水は濁っていた。柳は青み、黄のたんぽぽが咲いていた。青邨は、「悠久ということを眼のあたりに見た。百年河清という言葉も思い出した。全長何千キロという長い河である。長江はいまここに来て海に口を開いている。日夜土砂を流してここに吐く。永久に澄むことはあるまい」と、『自選自解 山口青邨句集』で述べている。

 「蒲公英(たんぽぽ)」は、道端、野原に咲く多年草。生命力の強い花で、根は太く50センチ以上も地下へ伸びてゆく。蒲公英の生命、6300キロという長江の長さ、途切れることのない泥土を思ったとき、青邨は、「永久(とこしえ)」の言葉が浮かんだ。そして古語の「とこしなへ」としたことで、作品に「悠久」を備えることができた。

  夕立に濡れてはかわく四迷の碑 『雪国』

 この句は、上海の次の寄港地シンガポールでの作品。青邨は、ホトトギスの俳人の案内で、植物園とその近くの日本人墓地の二葉亭四迷の墓を訪ねた。四迷は、朝日新聞の特派員としてロシアに渡り露都通信を書いていたが、肺炎を患ってロシアからの帰途ベンガル湾の船上で亡くなり、明治四拾二年五月にシンガポールに埋棺され、有志が墓を立てたという。虚子の『渡仏日記』には、「二葉亭四迷之碑」と書いてある碑で、他の墓とは異つてゐた、とある。
 二葉亭四迷は、私にとっては小説家としてよりも翻訳家として好きな作家であり、四迷が翻訳したツルゲーネフの作品のロシアの大自然の描写の美しさに憧れたことがある。
  
 句意は、次のようであろう。
 
 墓に行く途中、青邨一行は夕立に遇った。シンガポールの夕立は、おそらくスコールのように激しかったと思われる。「濡れてはかわく」と詠んだことで、夕立の激しさも、濡れてもすぐに乾く南洋の気候が感じられる。
 
 山口青邨(やまぐち・せいそん)の第二句集『雪国』は、昭和九年から十五年までの七年間の作品が収められていて、その中の二年半は選鉱学研究のためドイツ及びアメリカに留学。海外詠である。
 高野素十も昭和七年からドイツへ留学し、昭和十一年には高浜虚子が欧州旅行をしてドイツにも立ち寄っているので、三人の文章から、ヒットラーの時代的な重なりも感じる。当時は大型客船での旅が多く、虚子の『渡仏日記』からは、青邨のフランスのマルセーユに到着するまでの様子を窺うことができた。