第百三十三夜 茨木和生の「桃の花」の句

  傷舐めて母は全能桃の花 『木の國』

 鑑賞をしてみよう。

 幼い子には、親の予測のつかないことが起こることがある。和生氏の場合は、いきなりの高熱であった。母は氷嚢で冷やすが、風邪でもなく腹痛でもなさそうだ。母に「何か蛇に悪さをしなかったかい」と訊かれ、「どこまで飛ぶか、友だちと、蛇の投げっこをした」と答えると、母親は黙って外に出て行ったという。母親はどこへ行き何をしたのか言わなかったが、翌朝には和生氏の熱は治まった。蛇は神仏の使いとも言われ、殺めたりすると罰が当たるとも言われる。

 「全能」というのはキリスト教ではイエス・キリストの、天の父を全能の神という。茨木和生はクリスチャンである。「全能」という言葉を俳句に入れてみたかったと言い、どのような事態でも子を守り、祈ってくれる母を「全能」と詠んだ。季題の「桃の花」は、母を詠む作品に相応しい優しさを与えた。

 茨木和生(いばらき・かずお)は、昭和十四年、奈良県大和郡山市生まれ。私立高槻中学校・高等学校教諭(古文担当)を長く勤めた。高校時代、創刊したばかりの「運河」に入会し右城暮石(うしろ・ぼせき)に師事。『天狼』の山口誓子にも師事。平成三年、暮石から継承し「運河」主宰。平成九年、『西の季語物語』により第11回俳人協会評論賞、平成二十八年、句集『真鳥』で第31回詩歌文学館賞俳句部門受賞。代表句に〈山桜もみぢのときも一樹にて〉や〈息づかひ静かな人と蛍の夜〉など。

 蝸牛社の俳句・背景シリーズ第7巻『のめ』から、著者・茨木和生の作品を紹介してみよう。このシリーズは、作品と33のエッセイからなっていて、エッセイは、できることなら作者の俳句工房を覗かせていただきたい、というのが出版社の狙った企画であった。もちろん『鶴の恩返し』の鶴のように、反物を織り上げるまでは工房内は見せないのが俳人かもしれない。和夫氏のエッセイも、近づいてきたかなと思うや、核心から遠のいてしまう文章であったが、作品のバックボーンは十分に愉しく語ってくれている著書である。
 
 次の作品のエッセイは、これ以上の解説は要らないほど東吉野村の媼のやわらかな方言に心が充たされる思いであった。一部をそのまま紹介させていただこう。
  
  廃屋を実家と指せり山桜 『のめ』
  
 ここは日受けがええで、花もあらかた散りましたが、あっちの方なあ、わたい、あの家から歩いてここへ嫁に入ったんやけど、あこの花はちょこ盛り過ぎたころやろかあ、と指している家は空き家ではなく、あきらかに廃屋であった。朽ちてゆく実家を見続けて老いていくのは、どれほどかつらいにちがいない、と思った。