第百三十四夜 西東三鬼の「春」の句

  春を病み松の根つ子も見あきたり 『西東三鬼全句集』

 作品をみてみよう。
 
 三鬼は、三十一を過ぎたばかりの頃に俳句を始め、六十二歳までの人生の半分を誰よりも様々に挑戦し続けた俳句人生であった。昭和三十七年四月一日、自宅で永眠。角川書店本社楼上にて初の俳壇葬が営まれた。

 一年前に胃癌を発病。年末には俳人協会設立に参加したが、その後はずっと病の床にあった三鬼は、天気のよい日には障子を開けて庭の松の木を眺めていたのであろう。「松の根つ子も見あきたり」は、毎日見ているから「見るのも飽き飽きした」という意味ではない。三鬼は、戦前の新興俳句、無季俳句、戦争俳句という新しい時代を切り開くための運動の最先端の作家で在り続け、戦後には戦後の新しい時代の俳句の最先端で在り続けようとした人物である。
 「思い通りの俳句も作ったし、やるべきことは終えたし、充分に生ききったよ。」と、三鬼はそう言いたかったのだと想像する。
 どこか明るく、さばさばしていると感じるのは「根つ子」だ。「根」に接尾辞としての「子」が付いた表現である。「子」には小さいもの・可愛らしいものといった意味合いを持つ場合もあるからだ。
 正岡子規の絶筆〈糸瓜咲いて痰のつまりしほとけかな〉と同じように、掲句は、三鬼の絶筆であった。
 
 西東三鬼(さいとう・さんき)は、明治三十三年(1900)―昭和三十七年(1962)、岡山県津山市生まれ。歯科医として勤める傍ら、三十代で俳句をはじめる。「走馬燈」日野草城選句欄に投句。「旗艦」「京大俳句」に拠り新興俳句の旗手となり、「俳句は詩である」として無季俳句の可能性を追求。〈水枕ガバリと寒い海がある〉など、斬新な文体と鋭利な感性が特徴。昭和二十三年、山口誓子の「天狼」創刊を企画。昭和二十七年「断崖」を創刊。昭和三十一年、角川書店の総合誌「俳句」の編集長。さらに、俳人協会の設立に参加。交友関係は多岐にわたる。没後、第四句集『変身』により昭和三七年度の第二回俳人協会賞を受賞。

 三鬼の作品は、思いも寄らないような表現をしていながら核心を突いてくる。ご存知の句だと思うが紹介しよう。
 
  算術の少年しのび泣けり夏 『旗』
  兵隊がゆくまつ黒い汽車に乗り 『旗』
  みな大き袋を負へり雁わたる 『夜の桃』
  中年や独語おどろく冬の坂 『三鬼百句』

 一句目、この句は、「少年しのび泣けり夏」の破調から、算数が解けないことに悔しがる少年が見える。
 二句目、無季俳句の作家たちの目指したものは、「新詩精神(エスプリ・ヌーボー)」であった。「戦争」という言葉が季語に匹敵するとして、前線俳句、銃後俳句、戦火想望俳句がある。この作品は、戦地へ征く列車であろう。
 三句目、終戦後の、誰もが食料を求めて買い出し、あるいは都会へ食料を売りにゆく大きな荷物を背負ったおばさん。終戦の年に生まれた私だが、電車には大きな袋を二段に背負い、両手にも袋を下げた中年のおばさんたちがいた。秋の収穫後の光景だ。電車を下りた空に、雁が棹となって渡っている。
 四句目、中年から俳句を始めたからという訳ではないだろうが、三鬼は、〈中年や遠くみのれる夜の桃〉など、「中年」のキーワードは「戦争」と同じように得意だ。