第百三十九夜 松尾芭蕉の「行春」の句

  行春や鳥啼魚の目は泪    『奥の細道』
  ゆくはるや とりなきうおの めはなみだ
  
 芭蕉の句は「千夜千句」の二度目であるが、本日、三月二十七日は、芭蕉が『奥の細道』の旅立ちの日である。旧暦なので実際はもう少し後の五月であろうか。門人たちの見送りを受けて出立したのは、門人杉風(さんぷう)の別宅「採茶庵」(さいとあん)で、深川の仙台堀川橋のたもとにある。芭蕉庵を売り払った芭蕉は、暫く「採茶庵」に住んでいた。
 現在の「採茶庵」は、映画のセットのような表だけの板張りで、縁側に座っている芭蕉像がある。訪れる人たちは、芭蕉像と並んでうれしそうだ。私も横に座ってみた。実物大の像だというが、昔の人はかなり小柄であった。
 「奥の細道」の旅はここ深川から舟に乗り、隅田川を千住まで約十キロのぼり、そこからは徒歩で奥州街道を北上する。
 
 『奥の細道』の[旅立]の原文を引いておく。
 
 「弥生も末の七日、明ぼのの空朧々として、月は在明(ありあけ)にて光をさまれるものから、不二の峰幽かに見えて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつまじきかぎりは宵よりつどひて舟に乗て送る。千じゆといふ所にて舟を上がれば、前途三千里の思ひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ。
  行春や鳥啼魚の目は涙
是を矢立の初めとして行く道なほすゝまず。人々は途中に立ちならびて、後ろ影の見ゆる迄はと見送るなるべし。」
  
 掲句をみてみよう。
 
 「行春」は晩春の季題。句意は、春がまさに終わろうとしているが、去りゆく春を惜しんで、人ばかりでなく鳥たちは啼き、魚の目も泪を浮かべているようである。

 杜甫の「春望」の詩、「鳥啼魚の目は泪」に見立てて別れの句としたとも言われる。
 山本健吉は、この句のモチーフは惜別の情であるが、俳句の表面は惜春の情であるという。
 高浜虚子は、釈尊涅槃図の色々な動物が号泣しているところを連想したという。客観描写による具象の「鳥や魚」は、季題「行春」に託したことで、象徴されたものが露わではなくなり、作品に格調が出たようの思う。
 山口誓子は、「目は泪」を「満眼これ涙ともいふべき濡れた感じ」と言ったが、ユニークな捉え方である。
 私は、「鳥啼魚の目は泪」「とりなき・うおの・めは・なみだ」と、破調であるにも拘らず、口ずさむと、心地よい調べのある作品だと感じた。
 この留別の句は、直接に見送りの人たちに詠んだのではなく、この旅を終えて『奥の細道』を書く時に詠んだ句であった。
 芭蕉の「奥の細道」の旅は、元禄二年三月二十七日に出発し、百五十日、六百里の全行程を終えて大垣に到着したのは、八月下旬であった。元禄三年には、「幻住庵記」『笈の小文』を書き、芭蕉が『奥の細道』の清書本を完成したのは、元禄七年の四月であった。