第百四十一夜 篠原鳳作の「海の旅」の句

  しんしんと肺蒼きまで海のたび 「海の旅」『篠原鳳作全句文集』
  
 作品をみてみよう。
 
 海の青さを「肺蒼きまで」と、全身で感じるのは、陸地から遠く離れた外洋でしか感じられないのかもしれない。この作品は無季の句で、鳳作は、詩的インパクトの強い「海」という言葉を季語の代わりに用いた。昭和九年の作。
 この作品は、鳳作の代表作であり、無季俳句の代表句の一つである。
 
  幾日はも青うなばらの円心に 「海の旅」『篠原鳳作全句文集』
  
 鳳作の「海の旅」の中に、上記の東シナ海へ四泊の船旅をした折の作品も入っている。「幾日はも」は「幾日も青い海原の真ん中にいることよ」で、「はも」は詠嘆の意を表す連語。
 この句を読んで思い出す海の句といえば、昭和八年に高浜虚子一行の北海道旅行へ同道したとき、中村草田男が初めての青函連絡船に強い印象を受けて詠んだ「秋の航一大紺円盤の中」である。どちらの作品からも、360度の海原の紺碧の深々とした色彩を感じる。草田男の作品は有季で季語は「秋の航」。
 相前後して詠まれた、鳳作の無季俳句と草田男の有季俳句は、俳壇に問題を提起したという。
  
 篠原鳳作(しのはら・ほうさく)は、明治三十九年(1906)―昭和十一年(1936)、鹿児島市生まれ。帝国大学卒業後、沖縄で教職につく。昭和三年、「ホトトギス」に初入選。「ホトトギス」、「京鹿子」、「馬酔木」など、初学時代は多くの俳誌に投句した。後に、吉岡禅寺洞の「天の川」に参加。昭和八年、同人誌「傘火(かさび)」を創刊。昭和十一年九月十七日に死去。死因は脳腫瘍とも結核性脳膜炎とも言われている。絶句とされている〈夏痩せの胸のほくろとまろねする〉である。制作活動は十年ほどであった。
 
 新興俳句の中で無季俳句の先頭に立って理論と実作に挺身した鳳作は、〈はてしなき闇がネオンにみぞるるよ〉のなど都会の構成美、〈ルンペンのうたげの空に星一つ〉など社会的感覚、また「起重機」「昇降機」の力学的美を詠むとき、季題は不用で、高翔する魂のはばたきでなければならないとした。

 無季俳句の代表作をもう少し紹介しよう。
 
  ふるぼけしチェロ一丁の僕の冬  昭和九年作 
  赤ん坊の蹠(あうら)まつかに泣きじやくる  昭和十一年作
  蟻よバラを登りつめても陽が遠い  昭和十一年作

 一句目、「冬」は季語ではなく、「僕の冬」という詩語である。当時「僕」は俳壇が驚くほど新鮮であったと思う。
 二句目、生まれたばかりの赤子という生命の躍動を、赤ん坊の勢いの姿として一気呵成に表現した。
 三句目、昭和十一年は、鳳作が病気に倒れてしまった年である。「蟻」は鳳作自身のアナロジーとして詠んでいるので夏の季語ではない。無季俳句の先頭を走っていたが、もう少し長生きしていれば、最終的には「戦争」というキーワードを得た筈であった。死を間近にした鳳作は、「無念さ」「陽の遠さ」を感じたかもしれない。