第百四十五夜 永田耕一郎の「耕」の句

  気の遠くなるまで生きて耕して 『カラー図説 日本大歳時記』講談社
 
 作品の背景をみてみよう。
 
 春の季語「耕(たがやし)」は、「たがえし」とも言う。種を蒔いたり、苗を植えるのに適するように土を鋤き返しやわらかくすることで、田打ちや畑打ちなどを含めた広い意味にいう。〈苗代に指深く刺しあそばせる〉などの作品もあるが、耕一郎が住み、日々目にしている北海道の大地に働く農家の人たちの姿であろう。

 鑑賞は次のようであろうか。

 「気の遠くなるまで」は、「生きて」と「耕して」の両方に懸かっている措辞であると思う。畑作も米作も、生きた植物を育てることは子育てと同じ位に手がかかる。また北海道の畑といえば、あの丘の向こうまで、と言うほどの広大さである。お百姓さんの仕事の多さといったら、まさに「気の遠くなるまで」という半端のなさである。

 平仮名を多くして平板に叙したことによって、毎日毎日の農作業の一つ一つが、果てのない単調さの連続であることとして伝わってくる。収穫期のお百姓さんの黒い日焼け顔が誇らし気に感じられることがあるが、このように働く姿こそが平凡のなかの珠玉ではないだろうか。
 
 永田耕一郎(ながた・こういちろう)は、大正七年(1918)―平成二十年(2006)、韓国木浦(もっぽ)生まれ。昭和二十二年、中国大連から北海道に引き揚げ、遠別町の助役を務めた。俳句は初めは清原枴童・金子麒麟草に就いた。引き揚げ後は加藤楸邨に師事。「寒雷」「杉」「響焔」同人。昭和五十五年、「梓」を創刊・主宰。北方の風土に根ざした力強い句風で、後進を指導。句集に『氷紋』『海絣』『方途』『雪明』『遥か』。

 もう一句、蝸牛社刊『秀句三五〇選 死』より著者・倉田紘文の鑑賞を紹介させていただく。
 
  素裸にて死神はつき易からむ 蝸牛社

 そう言われてみれば確かに死神にも憑き易い人と、憑きにくい人があるに違いない。だから、「素裸にて」なる者にはなるほど「つき易からむ」と、うなずける。
 〈見えてゐるほかは真っ暗牡丹雪〉などの磊落でしかも大きさと深さをもつ作者は、人生そのものに対してもまた大らかなのであろう。(文・倉田紘文)
 
 上五の「素裸にて」は、風呂上がりであろうか、やや老年となった作者・耕一郎が鏡の前で素っ裸のまま佇っている。そして死神に挑むかのように、「さあ、死神よ、来るなら来い。こうして裸になった私には、とり憑き易いのかい・・?」などと、独り言ちている耕一郎が見えてきた。(あらきみほ)