第百四十六夜 高屋窓秋の「さくら」の句

  ちるさくら海あをければ海へちる 『白い夏野』  
 
 作品をみてみよう。
 
 窓秋の目には、桜の花びらは自分の意志で散っているように見える。花の散る方向は風の方向で決まるのに、「海があをいから」海の方へ桜が散ってゆくのだと詠んでいる。理屈を越えた世界であるが、こうした若々しい表現を新興俳句の俳人たちは詠んでみたかったのだろう。
 海の青さへ散ってゆく白い花びらは、光の粒となって海原のさざ波となる。

 高屋窓秋(たかや・そうしゅう)は、明治四十三年(1910)―平成十一年(1999)、愛知県名古屋市生まれ。昭和五年、水原秋桜子に師事、「馬酔木」同人。窓秋の新興俳句運動の功績は、俳句に詩を盛り込んだことであった。

 秋桜子、誓子、窓秋が中心となって連作形式を多用したのが新興俳句運動の特色である。抒情的な清新な詩情の俳句を詠みたくて、心(主観)を述べようとしても、十七文字ではなかなか表現できない。そこで工夫したのが、同じ題材で三句、五句と並べて発表するという連作形式であった。
 第一句集『白い夏野』の冒頭には、「三章」と題した次の連作がある。
 
  我が思う白い青空と落葉ふる
  頭(づ)の中で白い夏野となつている
  白い靄に朝のミルクを売りにくる

 この連作のテーマは、三句に共通した「白」のイメージであり、「白」が象徴する心象風景である。この連作の中で、当時も今も、強烈なインパクトを感じさせる作品は二句目の「白い夏野」である。窓秋の「白い夏野」は、今までの季語の使い方とは異なっていて、季語としてではなく、「白」による清新なイメージに喚起された近代的新詩精神による言葉なのであった。こうして、連作作品を詠む中から無季俳句が生まれた。

 秋桜子や誓子は、高浜虚子の提唱した「花鳥諷詠詩」「客観写生」という伝統俳句に新しさを求めて、虚子を離れたが、季題(又は季語)を重視する有季定型派である。
 新興俳句運動は、無季容認派と有季定型派とに別れることとなった。
 
 窓秋の戦後から晩年の作品を紹介しよう。
 
  石の家にぽろんとごつんと冬がきて 『石の門』
  黄泉路にて誕生石を拾ひけり 『花の悲歌』
  晩冬が佳くて人間ひとりかな 『花の悲歌』以後
 
 昭和二十三年、山口誓子の「天狼」の創刊に参加するが、作句は中断したり再び始めたりしたという。
 二句目、黄泉路という冥土への途中で拾った誕生石は、もしかしたら、次に生まれ変わる輪廻を意味しているのだろうか。明るさのある作品である。
 三句目、筆者の私は、間もなく後期高齢者となる。死はすぐ其処にあるとも言えるが、少しも怖くはないと思うようになってきた。
 窓秋は、なお諧謔と遊遊の境地の中で、八十八歳まで俳句を詠んだ。