狡る休みせし吾をげんげ田に許す 『礼拝』
津田清子氏の作品を最初に惹かれたのは、歳時記で見た〈虹二重神も恋愛したまへり〉〈千里飛び来て白鳥の争へる〉と、この〈狡る休みせし吾をげんげ田に許す〉であった。
掲句を見てみよう。
狡る休みしたのは、遠い子ども時代の回想なのか、それとも、大人になって仕事の忙しさに追われている自分に「狡る休み」という寄り道を、ちょっとだけ与えたということなのだろうか。それが己を「許す」である。
「げんげ田」の「げんげ」は「紫雲英」と表記するが、別名・蓮華草のこと。田を休ませるために、放置するのではなく「げんげ田」にしておく。春には、田んぼが「げんげ」の濃いピンクの花で埋め尽くされる。花が終わり、地に埋めれば田の肥料になる。休耕田には、子ども連れや犬連れが入って遊んでいることがある。
美しいげんげの花畑のなかで、心は癒やされ、明日は「狡る休みはしない」自分に戻れるだろう。「許す」の語気は強いけれど、そんな時だってある。
津田清子(つだ・きよこ)は、大正九年(1920)―平成二十八年(2015)、奈良市の生まれ。奈良女子師範卒業後は小学校教諭。俳句は、昭和二十三年、「七曜」に参加して橋本多佳子に師事したことに始まる。翌年には「天狼」に入会し、山口誓子に師事。昭和四十六年、「沙羅」を創刊主宰、後に「圭」と改称。平成十二年、『無方』により蛇笏賞を受賞。
平成五年、津田清子はカメラマンの芥川仁(あくたが・わじん)とアフリカのナミブ砂漠への旅をした。そして自身の俳句や砂漠の旅の気持ちを、『証言・昭和の俳句』下巻にこう語っている。
「人がどんな上手な俳句を作っていても、あまり気にならないんです。私は何を見つけようか。私の目に引っ掛かるものは何か。自分の見つけたいものの方が、いまでも大事。だから人の行かない砂漠へ行ったのです。砂漠で何かに出会いたい。何かを見つけたい。砂漠の声を聞きたい気持ちでした。」
『無方』より三句、紹介させていただく。
はじめに神砂漠を創り私す
無方無時無距離砂漠の夜が明けて
人間の枷を砂漠のどこで解く
一句目、神がこの砂漠をお創りになったという。「神」は、キリスト教でいう世界と人間を創造した神のこと。旧約聖書の創世記の舞台はエジプトの砂漠地帯である。下五の文語「私す」は「わたくしす」で、意味は、① 公のものを自分のものにする、② 勝手な振る舞いをする、である。
「私す」に、津田清子はどのような意味を込めたのだろうか。
二句目、この「無方」とは人間の言語や思考で方向づけることのできない無限定の世界、すなわち、囚われなき生き方をするという莊子のことばであると、津田清子はいう。時間にも距離にも囚われることのない無限定である砂漠の夜が明けた。
三句目では、「枷」を詠み込んだ。自由自在になれる砂漠に来て、これまで行動を束縛されて生きてきた「人間の枷」を、さて、どこで解くことにしようか。