第百五十夜 村越化石の「山眠る」の句

 村越化石(むらこし・かせき)は、大正十一年(1922)―平成二十六年(2014)、静岡県藤枝市生まれ。昭和十六年、妻とともに群馬県草津村のハンセン病国立療養所栗生楽泉園に入園。俳句は園内の「栗の花句会」に始まる。昭和二十四年、大野林火に師事、「濱」同人。昭和四十五年、失明する。〈寒燈を消すとき母につながれり〉〈森に降る木の実を森の聞きゐたり〉など、「最後のハンセン病患者の覚悟」で詠む作品は、人の心を強く打ち、励ます力となった。

 ハンセン病というのは、らい菌によって引き起こされる感染症のことで、「癩者(らいじゃ)」と呼ばれたりする。感染すると皮膚にさまざまな病的な変化が起こる病気で、手足などの抹消神経に障害が起き、体の一部が変形するという後遺症が残ることもある。見た目の変化、感染するという風評から、差別と偏見が大きかったという。

 次の作品をみてみよう。

  山眠り火種のごとく妻がをり 『筒鳥』
 
 「山眠る」は、冬の季語。生気を失った冬の山が、あたかも眠っているように静かに見えるさまをいう。
 「火種」は二通りある。①火をおこす元になる火。②争い・騒ぎの原因。
 夫の化石に来客があると必ず同席する妻のナミは、掲句の話になったとき、「私は火種ではありませんよ。」と言ったという。その語調は、②の「争いの原因」ではないと言っているようだ。栗生楽泉園に入園する以前に結婚し、その後の長く厳しい療養生活を支え続けてきた妻である。夫化石の俳人としての生活にとっては、静かな暖かな「俳句という火をおこす元になる火」を育て続けた人であろう。
 「山眠り」「をり」の「り」は、動詞の未然形について動作が引き続いていることを表す助動詞。この「り」のくり返しから、静謐な「火種」であったことが伝わってくる。
 
  闘うて鷹のゑぐりし深雪なり『山国抄』

 深い雪の上にはえぐり取られたような痕跡がある。鋭い爪の跡は、鷹が獲物と闘った跡であるに違いない。だが化石が、その深雪の醜くえぐり取られた痕跡に感じ取ったものは、鷹が獲物と闘ったから出来たキズではなかった。深雪にできたキズそのものであった。そのキズは、化石自身の身体にも印されている病跡そのものであった。
 化石がハンセン病を宣告されたのは、旧制の志太中学校四年の十六歳であったという。強制的にハンセン病国立療養所に行かねばならなくなって、拒んだ時、母は「一緒に死にましょう」と言ったという。
 
 俳号「化石」は、地方新聞に投句を始めた頃から用いているが、「自らを、土中に埋もれ、すでに石と化した物体になぞらえて名付けた」という。ハンセン病とその後遺症と闘いながら句作を続け「魂の俳人」と呼ばれた。