第百五十二夜 与謝蕪村の「凧(いかのぼり」の句

 与謝蕪村(よさ・ぶそん)は、享保元年(1716)―天明三年(1783)、大阪市都島区毛馬村生まれ。俳諧師、画家。俳諧は早野巴人に学び、絵画は狩野派の手ほどきを受け、文人画を大成。俳画作品の「おくのほそ道」「野ざらし紀行」は傑作。巴人没後は京都に移住。〈さみだれや大河を前に家二軒〉〈鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな〉など、写実的・古典趣味的・浪漫的な俳風を形成した。晩年になると俳諧性の回復を唱えて、自在の境地を志向する。
 
 蕪村自身は、「俳人は自分の句集など出さなくてもいい」と言っていたが、ひそかに自選句集を書き進めていたという。しかし生前の句集は叶わなかった。没後、蕪村の句稿は、娘・くのが遺産として売るなど分散していたが、その後、弟子の高井几董(たかい・きとう)が再び作品を集めて『蕪村句集』を刊行した。

 鑑賞を試みてみよう。

  凧きのふの空のありどころ

 凧(いかのぼり)は春の季題。お正月の遊びの一つでもあるが、「しゃぼん玉」「風車」などと同じで、春風の中での遊びであろう。凧糸と風との戦いは、少年も、少年の心をもった大人も夢中にさせてくれる遊びだ。
 「きのふの空のありどころ」から、その人は、昨日もこの場所で同じ空の下で凧揚げをしていたことがわかる。

 ある年、犬の散歩で利根川の河川敷へ行くと、新年の凧揚げ大会が行われていた。連凧を遠くの空まで揚げている人がいた。初めて見る連凧だったので、三十代とおぼしき男性の間近で見せてもらった。
 風の向きや風力を掌に感じながら一枚ずつ繰り出してゆく姿は、腰を落として踏ん張る綱引きのようである。遂に三百枚の凧が大空に揚がった。一枚が一メートルだから、三〇〇メートルもの連凧が風力とせめぎ合っている。数字は忘れてしまったが、その男性は風力計を見せてくれた。

 凧揚げというのは、凧の先にある大空をずうっと眺めながら風と遊んでいることだと、大空を感じていることだと、私はそのとき思った。
 
 蕪村が世に認められるようになったのは、明治になってからである。俳句革新を目指した正岡子規が、俳句分類する中で出会ったのが蕪村俳句であり、蕪村の俳文集『新花摘』であった。子規が画家の中村不折との出会いで得た写生の描法を、明治という新時代に俳句の新調として取り入れたきっかけが、写生の効いた蕪村俳句であった。

 絵画的、写生的といわれる作品をみてみよう。

  閻王の口や牡丹を吐んとす
  月天心貧しき町を通りけり
  ゆく春やおもたき琵琶の抱心

 一句目、「閻王の口」は大きく赤く勢いがある。それは咲き誇った牡丹を思わせるが、美を瞬時に捉える画家の目の力だ。
 二句目、江戸時代の士農工商と定められた身分制度では誰もが貧しかった。それでも月明かりは平等に「貧しき町」の上にも照らしてくれる。
 三句目、「行く春」は、春が尽きようとするとき。過ぎ去ろうとする春を惜しむ気持ちがある。そうした気持ちを、重たい琵琶を抱くようだ、と表現した。「おもたき琵琶」という具体的な「もの」を詠み込んだことで、「行く春」の季題と響き合う心となった。
 しかし蕪村のどの作品にも、しみじみとした情趣が感じられる。