第百五十三夜 原 石鼎の「秋風」の句

 原石鼎(はら・せきてい)は、明治十九年(1886)―昭和二十六年(1951)、島根県出雲市生まれ。中学時代より俳句に親しみ、明治四十五年、「ホトトギス」に投句。医業を継ぐはずであったが、文学への思い絶ちがたく、放浪ののち、吉野で俳句開眼。
 〈花影婆娑(ばさ)と踏むべくありぬ岨の月〉など、深吉野在住の頃の句を、虚子は「進むべき俳句の道」の中で、「豪華・跌宕(てっとう)とも形容すべきものであって、全体が緊張して調子の高朗のものが多い」と称賛した。
 石鼎は一時期、ホトトギスの事務をしていたことがあるが、望んでいた新聞記者となり、〈淋しさにまた銅鑼うつや鹿火屋守〉から名をとった結社「鹿火屋」を創刊・主宰する。
 
 正岡子規の没後、河東碧梧桐が新傾向へ向かったことで、明治四十五年、虚子は「ホトトギス」を刷新するべく雑詠選をスタートさせた。新設された雑詠選に投句し、巻頭作家となったのが、渡辺水巴、原石鼎、前田普羅、飯田蛇笏、村上鬼城など個性ある作家たちであった。この時期は「ホトトギス」第一次黄金期と呼ばれた。

 大正四年から「ホトトギス」誌上で、虚子は「進むべき俳句の道」として巻頭作家の各人評を試み、一人一人の人生や性格にも触れ、丁寧な鑑賞をし、各人の主観の特徴を挙げて的確な道を作家たちへ示した。
 また連載の初めに虚子は、「諸君の進み来たった道は諸君の進むべき道である」と述べ、俳句には幾多の道があることを示していた。

    父母のあたたかきふところにさへ入ることをせぬ放浪の子は、
    伯州米子に去って仮の宿りをなす
  秋風や模様のちがふ皿二つ 『花影』  
 
 この作品を鑑賞することは難しいと思っていたが、虚子の「進むべき俳句の道」を改めて読み直して、これほどに深い作品であったことに驚いている。
 今回の第百五十三夜の鑑賞は、虚子の文章を粛々と書き写してみたいと思う。
 
 虚子の鑑賞は、次の通りである。
 
 「此の句の如きは、前置があるからでもあるけれど、しみじみとした心持ちを味はすに足る句である。模様の違ふ皿二つを点出して来て放浪の境界を描いた所も巧みである。別に奇抜な言葉を持ちふるでもなく、感じを誇張するでもなく、目前の些事をつかまへて来て、それで心持ちの深い句を作ることが出来てゐる。此の方面に心を潜めたならば自ずからまた別の境界が開けて来るであらう。」
 
 私は、石鼎のこの作品は、「秋風」を淋しさと捉えず、爽やかな気持ちを表す配合の句であると思い、「模様の違う皿二つ」を貧乏生活の一齣とは考えず、現代のお洒落なテーブルセッティングのように想像していた。
 だが、違った解釈であるにしても現代俳句の佳句として、解釈ができ鑑賞もできる作品を、百年前に虚子が佳い作品であると推奨していたことの凄さを思う。