第百五十四夜 渡辺水巴の「菫」の句

 渡辺水巴(わたなべ・すいは)は、明治十五年(1882)―昭和二十一年(1946)、東京都台東区生まれ。父は近代画家の渡辺省亭。水巴は明治俳句で身を立てることを志し、明治三十四年、内藤鳴雪の門下生となり、終生俳句以外に職を求めなかった。明治四十五年、刷新された「ホトトギス」雑詠選で、水巴は〈櫛買へば簪がこびる夜寒かな〉などの作品で巻頭作家となった。
 大正四年、「曲水」を創刊主宰。虚子選を受け、「ホトトギス」雑詠の代選もした。「無常のものを有情に見る」ことが水巴の初期の顕著な特色であると、虚子は「進むべき俳句の道」で述べた。
 
 虚子の「進むべき俳句の道」は、雑詠欄創設以降の巻頭作家から三十二人の各人評を書いている。今回、読み直してみると一人一人への行き届いた深い観察力は、虚子が俳壇に復帰する以前に小説を書いていた期間があったことと無関係ではなかった。各人の背後にあるものを見、小説家の目と言葉で鑑賞している虚子の凄さを思った。

 水巴の項の、虚子の書き出しを写してみたいと思う。
 「渡辺水巴君は省亭画伯の息であつて、父君の愛護の下に衣食の道に窮迫したやうな苦痛は一度も嘗めたことはなしに今日に来て居る。三十幾歳の今日でも自ら稼いで自ら食はねばならぬといふ差迫つた難儀にはまだ出逢はないのである。けれども其家庭は平和であり乍ら普通の家庭とは稍々異つて居て、今日は慈母を亡くし一人の妹君と父君の膝下を離れて淋しく暮して居る。父君の溢るゝ如き愛は一貫して変るところは無いけれども水巴君の主観の上に或淋しい影を投げてゐるものは此の家庭の事情では無いかと思ふ。(略)今でも独身である水巴君は妹君の大切な愛護者であり、妹君は又水巴君の唯一の慰藉者である。」
 と、このようである。

 無論、俳人として初期のことであるから、さらに変化し深化してゆくに違いないのだが、本人にとっても、また後に作品を鑑賞する私たちにとっても、よき指針となっていることは間違いない。

 次の作品は、昭和十一年、第三句集『白水』の作品である。

  かたまつて薄き光の菫かな 『白日』 
  
 鑑賞を試みてみよう。
 
 この作品は「鹿野山にて」という前書がある。君津市には標高370メートルほどの房総丘陵をなす鹿野山がある。その一画の神野寺には、虚子や素十など多くの句碑があり、水巴の句碑には掲句が彫られている。

 吟行での作品であろう。登ってゆく道々に、ひとかたまりの菫を見つけた。そこかしこに菫はかたまって咲いている。野や山で見かける菫は、濃紫というほどではなく薄紫が多いという印象であるが、花の色が濃いか薄いかということではないと思う。
 山道を登りながら見ると、木立の間を漏れる日が差し込んでいる。かたまって咲く菫は、光に透けて、花の色が薄く感じられたのではないだろうか。画家である父の影響もあって、美に鋭く感応する水巴の目に「薄き光の菫」は美しかった。