第百六十一夜 角川源義の「泰山木の花」の句

 角川源義と言えば、角川書店の設立者であり、俳句だけでなく文壇、歌壇など文芸界全般をリードした一人である。
 俳句は中学時代から興味を持ってをり、昭和二十二年、金尾梅の門の「古志」が創刊されると幹部同人として参加する。第一句集『ロダンの首』刊行後、昭和三十三年、叙情性の回復と伝統への回帰を標榜した「河」を創刊。死去するまで主宰を務めた。昭和五十年、第五句集『西行の日』で読売文学賞を受賞。

 句集の代表作品から、源義を感じてみたい。

  ロダンの首泰山木は花えたり 『ロダンの首』

 この作品は、水原秋桜子、富安風生、中村草田男、石田波郷たち俳人が新築祝いに贈った泰山木の木を囲み、新宅びらきの句会をしたときに詠んだ句であるという。泰山木の花は、掌ほどの花弁も、花弁を囲む萼片も、同じく真っ白で、それは石膏の首像ほどの大きさである。「ロダンの首」の白い石膏像が、室内に飾られていたのかもしれないが、この見事な美の取り合わせの作品は、泰山木の花を見るたびに思い出す。

  墓洗ふ汝のとなりは父の座ぞ 『冬の虹』 
  
 〈神に嫁す朝ほととぎす声かぎり〉〈親なしの天国(ハライソ)いかに露の夜〉と詠んで、十九歳の次女の真里を亡くした源義の悲しみは当然のことながら深い。掲句は、納骨のときであっても墓参りであっても同じことで、墓を洗いながら呼びかけるのは「隣に入るのはお父さんだよ。待っていておくれ。」であった。
 俳句というのは悲しみを詠むときも、客観的な具体的な表現をとり諧謔のポーズをとる。情に溺れない強さというのも俳句の一つの力であると、私も俳句を詠むことで、幾つかの海坂を越えられたと感じている。
    
  花あれば西行の日とおもふべし 『西行の日』  
  
 西行は、「願はくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃」と、世俗を捨ててもなお西行の心から離れることのない桜の花を和歌に込めた願いどおり、桜が咲き誇る満月の日に亡くなった人である。
 源義は、この「西行の日」の俳句を得るために俳句を続けてきたのだという。源義の亡くなったのは十月二十七日、絶句ではないが〈月の人のひとりとならむ車椅子〉と、月へと帰ってゆく己の姿を詠んでいた。
 
 角川源義(かどかわ・げんよし)は、大正六年(1917)―昭和五十年(1975)、富山県富山市生まれ。中学時代に折口信夫(釈迢空)に興味を抱き、医師の道を諦めて、父の反対を押し切って國學院大學予科に入学、柳田国男、折口信夫、武田祐吉の指導を受け、折口の短歌結社「鳥船」に入会。昭和二十年、角川書店を設立し、昭和二十四年には角川文庫を創刊して成功する。
 昭和二十七年、俳句総合誌『俳句』を創刊。その創刊号に「ホトトギス」の高浜虚子は、「祝」と題して〈登山する健脚なれど心せよ〉の句を寄せている。昭和二十九年、短歌総合誌『短歌』創刊。昭和三十年、両誌でそれぞれ新人賞角川俳句賞および角川短歌賞を設立。昭和四十二年に蛇笏賞、迢空賞を設立。昭和三十六年の俳人協会設立への参加、晩年は「俳句文学館」の建設など、俳壇・歌壇の興隆に尽力した。