第百六十四夜 遠山博文の「春行く」の句

  春行くや手話もゆるやか島のバス 『円穹』
  
 掲句は、「天為」の有馬朗人主宰も参加しての上五島吟行で作である。観光客を乗せた島のガイドさんは言葉も動作もゆったりしている。手話も、どことなくゆるやかだ。
 同時作の〈つちふるや羅典語訛る島オラショ〉は、後に朗人師の選を頂いたことを嬉しそうに聞かせてくれた。五島列島は長崎港から100キロほど西にある152からなる島々をいう。2018年に「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」として世界遺産登録された美しい場所である。

 博文さんは、かつての教員仲間である。一時期、上五島で教鞭をとっていたこともあった。長崎市に三年間住んでいた私は、晴れた日には遠くに五島列島を見ていたが遂に行く機会がなかった。長崎市の高校教師たちは「青年教師の会」を作っていて、学校を越えた仲間であった。

  ぼた山は崩(く)えてまろみて晩夏光 『円穹』

 鉱山で採掘された鉱石のうち、資源として使えず廃棄する岩石などの部分を捨石を九州地方では「ぼた」といい、積み重なった山を「ぼた山」という。現在は石炭産業は滅びてしまって、ぼた山の形は崩れ、長い月日で丸みを帯びている。当時の北九州の遠賀川沿いは日本の主要な石炭の産地で、ぼた山は誇りをもって輝いていた。今は、晩夏光の中で、懐かしさを秘めて輝いている。
 博文さんは、この地の生まれだが鎌倉で育っている。しかし〈老いてなほ川筋気質栗の毬〉と詠んだように、身ぬちのどこかに、「放っておけない、義理人情に厚い、けんかっ早い、きっぷがいい、筋を通す、といわれる川筋気質が一本通っていることに気づいていたのだろう。
 傍からは、いつも穏やかな博文さんであるが。

  瘡蓋のまだなま乾き多喜二の忌 『円穹』

 プロレタリア文学に、父譲りで純な心を見ていた私は、久しぶりに小林多喜二の短い一生を思った。この作品は、幾度も特高警察によって残忍な拷問を受けた多喜二だが、博文さんは、死に至る最後の拷問を思って詠んだものであろう。傷跡は消えることはなく次々の拷問のために、瘡蓋(かさぶた)は生乾きであったのだ。自宅に戻ってきた亡骸を母は抱きしめ、「それ、もう一度立たねか、みんなのためもう一度立たねか!」と叫んだという。二十九歳の若さであった。

 遠山博文(とおやま・ひろぶみ)は、昭和十六年(1941)―平成二十六年(2014)、福岡県筑豊の生まれ。鎌倉育ち。筑波大学の前身・東京教育大学で言語学を専攻。長崎県で一高校教師に専念。「校長に成り下がらない」がモットー。
 授業で生徒たちと作ったタブロイド版の「The Nomozaki Times」(野母崎高校)や「The Iwaya Sun 」(長崎工業高校)は白眉。絵本かたつむり文庫のトルコ『森のこえ』とスーダン『火をぬすまれただちょう』(蝸牛社刊)を翻訳出版した折には、生徒たち全員が英語で感想文を綴って、絵本作家と交流するなど、生きた英語教育を試みた教師であった。
 短歌は高校時代から。趣味は連句。俳句は有馬朗人主宰「天為」の長崎支部に所属し、荒木清代表の「円穹」俳句会に参加。