第百七十夜 赤星翠竹居の「老の春」

  あひ年の先生もちて老の春 『水竹居句集』
  
 作品をみてみよう。
 
 大正十一年、東京駅前に丸ビルが落成した時にイの一番に申し込んできた店子の中に俳人虚子がいた。当時の三菱地所部長であった赤星水竹居は驚いた。その店子は、四十年も昔からいつか此の人に接してみたいと思っていた虚子だったのだ。
 関東大震災が鎮まった大正十四年、水竹居は虚子門下の老書生となった。
 それ以来、毎日丸ビルに通う虚子と、それこそ降っても照っても顔を見ない日はなかった。東京駅前の丸ビルと言えば、文明の先端をゆく建物で、〈丸ビルの屋上園や天の川〉とあるように、屋上園が作られていた。丸ビルに事務所を持つ誰もが、夜空を仰ぐことができたのであろう。
 そして、虚子と水竹居は明治七年生まれの同い年、先生と云い弟子と云うよりも老後の友人として相許す仲になってしまったという。
 それがこの作品。「老の春」は、虚子が作った新年の季題である。
 
 水竹居に著書『虚子俳話集』がある。私が「花鳥来」で虚子『五百句』輪講で学んでいた頃、仲間から教えてもらいながら資料として集めた書の一つであるが、文庫本で軽く読みやすく、虚子がぼそっと間近で話してくれているような文体から、虚子の教えがすっと入ってくる。

 「老練な句」の項目を紹介してみよう。どれもが同じように短い。
 
 この間の句評会の席上で、
    一と夕立ありたる街のながしかな  風生
 という句の番に当たって、花箕さんが頻りに汗を拭きながら考え込んでいると、側から先生が、
 若い人たちの新しい句はちょっと見ると句評がむつかしいようでかえってやさしくて、こんな平凡に見ゆる老練な人の句の方がむつかしいんですよ。
 と笑いながら言われた。   (昭八・八・十一)
 
 『五百句』輪講では、メンバーが一句ずつ虚子の句を鑑賞する。一句の背景にあるものを調べるには、かなり膨大な資料を集めて読む。そして格闘しながら句評を考える。たった十七文字なのに、なんと深い内容が込められているのだろうと毎回思った。
 本当に、虚子の言われる通りであった。
 
 赤星水竹居(あかぼし・すいちくきょ)は、明治七年(1874)―昭和十七年(1942)、熊本県八代市生まれ。三菱地所社長。俳句は内藤鳴雪、後に高浜虚子に師事。「水竹居」は俳号。句集『水竹居句集』、著書『虚子俳話集』『万年青』『虚無僧』など。

 六十八歳で亡くなった水竹居の晩年の、虚子との十数年間は、仕事場が近いこともあって、丸ビルに虚子を訪れてくる俳人たちと吟行したり、「武蔵野探勝」にも参加し、俳句だけでなく文章の「山会」にも所属した。
 虚子を身近にしたことで、俳誌「阿蘇」に「東京だより」「続東京だより」を連載し、没後に纏めたのが「ホトトギス」門の『去来抄』とも言われる『虚子俳話集』である。