第百七十三夜 飯島晴子の「いぼたのむし」の句

 飯島晴子氏の作品は「先ず写生がある」と言われているが、言葉にして鑑賞しようとすると、どれもむつかしい。

 考えてみようと思う。
 
  うしろからいぼたのむしと教へらる 『春の蔵』

 吟行での作品のように見える。「いぼたのむし」は、イボタガの幼虫。芋虫状で、体長は終齢で約8センチにもなる。頭部に黒い角(つの)があり、背は青白色。8センチの芋虫は大きくて気味悪い。「うしろから」「教へらる」を何度も口ずさむと、何故か「いぼたのむし」が背後から迫って来るようだ。
 「いぼたのむし」を見たのは事実であるにしても、晴子氏なら、そう簡単な作り方はしていないだろう。

  竹植ゑてそれは奇麗に歩いて行く 『八頭』

 「竹植う」は、陰暦五月十三日の行事で、 中国ではこの日に竹を植えると良く根付 くという言伝えがあり、それがわが国にも伝わったもの。
 「歩いて行く」の主語は? と思った。省略されてはいるが竹を植えた人であろうと先ず考えた。「それは奇麗に=非常に美しく」であるから大きな寺院の僧侶かもしれないと考えた。やはり普通になってしまう。
 植えられた竹が、それは美しい姿で歩いて行く、と考えるのはどうだろう。そもそも竹は、真っ直ぐな発ち姿であるから歩き方も美しい。竹林の神秘さが立ち現れる。

  昼顔は誰も来ないでほしくて咲く 『儚々』 

 フランス映画の「昼顔」の主人公はカトリーヌ・ドヌーヴ。結婚しているが昼間は、娼婦の昼顔である。だが花の「昼顔」は、朝顔より小さな花で、道端や野原などに自生する草である。地味な色や形は、「べつに、だれも見てくれなくってもいいのよ」と、いう風情。
 昼顔を、こんな風に「ぶっきらぼう」に詠んだ作品は初めてのように思う。

  月光の象番にならぬかといふ 『春の蔵』

 この作品もつよく魅かれる。「象番」は「象使い」であろう。象使いにならないか、と誘っているのは誰だろう。晴子氏が、吟行で行った動物園で象を見たときに、すっと浮かんだ作品だと言われている。
 晴子氏の作品を見ていくと、実際に「もの」つまり季語をじっくり見て、そこから瞬間の技によって季語と言葉が合わさって十七文字の俳句に仕上がっている。
 とすると、この句では「象」ではなく季語の「月光の」がポイントになる。間近で見た大きな象が、晴子氏には大いなる月光のように見える。その月光が「象番にならぬか」言っているように感じたのかもしれない。
 
 飯島晴子氏には「言葉の現れるとき」と題した評論がある。「俳句という詩型は、人間の意識の底の方の形をなさぬ不分明なところから偶然釣り上げられて、意識を通って更に、意識を未知の先の時空までのばす、そういう強力な言葉の出現」であると、言葉が立ち現れる瞬間をこのように語っている。
 
 飯島晴子(いいじま・はるこ)は、大正十年(1921)―平成十二年(2000)、京都府城陽市生まれ。昭和三十五年、「馬酔木」に投句、昭和三十九年、「鷹」創刊同人となり藤田湘子に師事。1997年、第六句集『儚々(ぼうぼう)』により第31回蛇笏賞を受賞。