第百七十五夜 福永耕二の「鳥渡る」の句

 俳句入門は、鹿児島県有数の進学校ラ・サール高校二年のとき、短歌俳句部に入部したことに始まる。馬酔木系の俳人が鹿児島大学から来講し、そこに国語の先生方も加わって、みな平等に名を名乗らずに句会をしたという。さぞ楽しかったことだろう。
 ある時、東京から訪れた水原秋桜子を囲んだ福岡市での句会へ出席し、秋桜子特選の三句の一句に選ばれたという。もはや運命は定まった。

  新宿ははるかなる墓碑鳥渡る 『踏歌』

 福永耕二といえば、新宿西口の高層ビル群といえば、思い出す代表句である。高層ビル群を墓碑と見たのは、逆光となる夕景であろう。勤務していた市川は新宿の東側、ここから西を眺めると富士山を遠景に黒々と立つビル群である。
 だが、「墓碑」と詠んだことは視覚的な暗さだけではないように思う。もっと遥かな西は、一人残してきた母の住む鹿児島である。また、常備薬を持ち歩いていたというから、そうした意味での暗さも「はるかな墓碑」に込めたのかもしれない。
 季語「鳥渡る」が気持ちを運んでくれる。
  
  ふとりゆく妻の不安と毛糸玉 『鳥語』

 妻の出産がだんだん近づいてきた頃のことであろう。
 「ふとりゆく」は三つある。一つ目は、お腹がだんだん大きくなってきた身重の体。二つ目は、子を生むことは現代においてもなお原始的な痛さを伴うものだから、出産日が近づくにつれ大きくなる怖さと不安。三つ目は、生まれてくるために準備するおくるみや帽子や靴下を編むための毛糸玉である。今と違って、毛糸の束を一人が持ち、一人が玉に巻き取ってゆく。「ふとりゆく」はまさに適切な言葉である。

  子の㡡(かや)に妻ゐて妻もうすみどり 『鳥語』
 
 原句は「㡡(かや)」の文字であったが、この作品も「蚊帳」の文字となっていることが多い。折り畳み式の母衣蚊帳(ほろがや)は子ども用ではあるが、授乳をしながらその中で眠ってしまった母と子の充足しきった世界は父と言えども踏み入ることはできない。「うすみどり」は網目の蚊帳の色だが、母と子のやすらかな世界を象徴する色であろうか。

 福永耕二(ふくなが・こうじ)は、昭和十三年(1938)―昭和五十五年(1980)、鹿児島県川辺町生まれ。昭和二十九年、水原秋桜子に師事。大学時代には「馬酔木」の巻頭作家になるほど早くから才能を発揮。昭和三十五年、鹿児島大学を卒業。昭和四十年、能村登四郎の推薦により上京、登四郎の勤める千葉県の私立市川高等学校に勤務。昭和四十五年、登四郎の「沖」創刊に参加。同年「馬酔木」編集長。昭和四十七年、馬酔木賞、沖賞受賞。代表句に〈新宿ははるかなる墓碑鳥渡る〉などがあり、青春性、叙情性を湛えた句風であった。句集に『鳥語』、『踏歌』、『散木』。昭和五十五年、『踏歌』により第4回俳人協会新人賞受賞。同年十二月、敗血症に心内膜炎を併発し死去。四十二歳没。