第百七十六夜 伊藤通明の「桃」の句

 伊藤通明氏は、『蝸牛俳句文庫 久保田万太郎』『秀句三五〇選 鳥』『秀句三五〇選 海』などの著者としてお会いしたが、同じ九州出身ということもあり今も懐かしい方である。

 鑑賞を試みてみよう。

  夕月や脈うつ桃をてのひらに 『白桃』  
  
 夕月のかかる頃、手のひらにぽんと置いてくれた大きな一個の白い桃である。新鮮な桃は、ビロードのようなうぶ毛に覆われているから「脈うつ桃」とは、手のひらに感じたうぶ毛の感触である。
 さらに「脈うつ」という鋭敏さの表現から、作者の通明氏はこの桃に、乳房に対するようなエロスを感じているように思われた。
  
  
  顔ながくなりてもどりぬ虫売りは 『白桃』

 祭にはたくさんの屋台が出ている。この虫売りはどんな虫を並べているのだろう。カブトムシ、スズムシ、ホタルなど子どもに人気の虫であれば子連れの客に囲まれそうなものだが、お客がなかなか来なくて、それでもやっと売り終えて、「顔ながくなりて」帰宅した虫売りのおじさんが主人公である。たこ焼きやたい焼きならばともかく、商売はつくづく厳しいと想像してしまう。

  夕立のつま先立ちて来りけり 『西国』

 あっという間に黒雲に覆われ、激しく近づいてくる夕立の降り方は、まさに「つま先立ちて」駆け寄ってくる雨の姿そのものである。夕立の降り始めの一瞬の見事な描写である。

  鷹の座は断崖にあり天の川 『荒神』

 この作品は高知吟行での作。「鷹」とは、土佐藩家老であり儒学者の野中兼山のことを指しているという。兼山は藩政に熱心に取り組んていたが、細かく厳しすぎたために半目を買い、遂には、投獄された牢で亡くなった。
 通明氏はその身の上を「鷹の座は断崖にあり」と詠んでいる。天の川は、今宵の空を輝くばかりのスケールで、くっきりと流れていた。それは、野中兼山の名誉もとうに回復されていることが伝わる豊かな光景であった。
 
 伊藤通明(いとう・みちあき)は、昭和十年(1935)―平成二十七年(2015)、福岡県福岡町生まれ。昭和三十一年、安住敦の句文に接し俳句を志す。昭和四十二年、「春燈」入会。第一句集『白桃』で俳人協会新人賞を受賞。昭和三十七年に創刊の同人誌「裸足」を「白桃」に改名、創刊主宰。
 「ものを見る」ということの本質を常に問い続け、代表句に〈夕月や脈うつ桃をてのひらに〉などがあり、みずみずしい叙情句が特色。句集に『白桃』『西国』『蓬莱』『荒神』、編著に『久保田万太郎』などがある。第四句集『荒神』により、平成二十年、俳人協会賞、山本健吉文学賞を受賞。