第二百五十夜 高浜虚子の「蜘蛛」の句
好きな虚子の作品を問われると、優に100句は超えるから一つを選ぶことは難しい。 夏になると、木蔭や藪や家の軒端やら、人間も蜘蛛の囲にかかってしまいそうである。生物はみな何かを食べて生き延びている。人間だって豚肉やら牛...
好きな虚子の作品を問われると、優に100句は超えるから一つを選ぶことは難しい。 夏になると、木蔭や藪や家の軒端やら、人間も蜘蛛の囲にかかってしまいそうである。生物はみな何かを食べて生き延びている。人間だって豚肉やら牛...
高木晴子は、高浜虚子の8人の子の5女である。姉の星野立子が病に倒れてから「玉藻」の選者であった晴子は、「玉藻」の企画「虚子先生曽遊地めぐり」でヨーロッパへ3回の吟行の旅をした。昭和53年、3回目はロンドンで、キューガー...
青柳志解樹氏は、「自然(しぜん)即自然(じねん)」を創作理念として作句しているという。「自然(じねん)」とは、仏教の言葉であり、万物は因果によって生じたのではなく、現在、あるがままに存在しているものだとする考えである。...
「巴里祭」とは、1789年7月14日のバスティーユ襲撃、翌1790年の建国式典(建国記念日)など、フランス革命記念日にあたる7月14日のフランス国民の祝祭日を、日本では「パリ祭」と呼ぶようになった。楠本憲吉の詠んだ〈汝...
相生垣瓜人の俳意を理解できるようになるには、も少し年月が必要な気がしているが、自然を詠みながら、自然を擬人化するのではなく、自然にここまでと思うほどに寄り添い、一途に客観的に凝視する。〈死に切らぬうちより蟻に運ばれる〉...
斎藤空華は、2度召集された戦地から帰還して間もなく療養生活となった。 私が10歳の頃に、故郷から再び上京し、戦後の貧しさの中で働き詰めだった母は、肺病となり江古田の国立中野療養所に入院した。祖母が上京して、父と私の面...
私が、小学校から中学校の初めの頃、昭和35年くらいまでであったと思うが、日曜日は中野にある絵画教室に通っていた。中央線に乗ると八王子にはアメリカ軍の基地があるからか、普段は見かけない黒人兵がいた。手の甲の黒さと手のひら...
土生重次には、俳句結社「扉」の主宰者として折々の指導語録がある。 その一つ、「ヤキモチは作品に」を紹介してみよう。 人は人に対してヤキモチをやきます。「扉」に集まる人は「作品に対してヤキモチ」をやいてもらいたい...
俳句では「七夕」は秋の季題であるが、子どもたちは、幼稚園や学校で教わるからか7月7日に七夕飾りをする。我が家ではもっと小さい頃から、こうした行事の度に、やんちゃな年子が夢中になれる時間を作った。つまり、テーブルの上で折...
平成5年、岡井省二氏は、新刊の第8句集となる『猩々』をお贈りくださった。表紙は能面の「猩々」、能の「猩猩」で付ける面で、童子の面を赤く彩色したもの。今から30年も昔の頃である。真赤な能面の表紙は強烈な印象として覚えてい...
平成23年、あらきみほ著『図説・俳句』は、深見けん二推薦として出版した。先生は、「公平に、俯瞰的に、子規以後の現代俳句の流れをかくことに成功した書として、この本を推薦いたします。」と、序文に書いてくださった。 筆者の...
前夜に続いて、私の読む力を試されそうな難解な俳人を選んでしまった。 蝸牛社刊『秀句三五〇選 夢』で見つけた作品は〈昼顔の見えるひるすぎぽるとがる〉である。解釈をしようとするとうーんと考えるが、漢字とひらがなとのバラン...
『秀句三五〇選 夢』を眺めている中に 、橋閒石の作品〈雪山に頬ずりもして老いんかな〉を見つけた。後期高齢者のなりたてであり「老」を考えてはいるが、一方で「夢」を未だ追い続けたいという最中でもある私は、橋閒石の「雪山に頬...
鷲谷七菜子先生から戴いていた、句集『一盞(いっせん)』(平成10年刊)を久しぶりに繙いてみた。あとがきには、句集名を『盞一』とした訳を、「〈一盞のはや色に出し夕霧忌〉のほのかな艶のこころを失いたくない思いがあったことも...
林翔(はやし・しょう)は、能村登四郎と同じ國學院大學の同窓であり、卒業後に勤務した市川高等学校も一緒、俳句の歩みも水原秋櫻子の「馬酔木」から始まり、登四郎が「沖」を創刊してからは登四郎が亡くなるまで70年近く俳句の道を...
平成元年、私は、NHKカルチャーセンターで深見けん二教室で学び始めていた。けん二先生は、いきなり句会を始めるのではなく毎回、高浜虚子と山口青邨、また当時活躍されている作家の作品を20句ほどコピーをして説明をしてくださり...
深見けん二(ふかみ・けんじ)の第8句集『菫濃く』は、平成20年より24年夏までの409句を収録。この句集により第48回蛇笏賞を受賞された。当日の作品〈その夜や春満月を庭に見て〉から喜びが伝わってくる。(『菫濃く』以後)...
お写真で拝見する大木あまりさんは、いつも永遠の少女のような印象である。 蝸牛社で『秀句三五〇選』というテーマ別のシリーズを発刊したとき、第一期12巻にテーマ詩をつけてくださっていた。 一部だが、第4巻「愛」から紹介...
黒田杏子先生は、山口青邨の弟子。昭和63年に青邨が亡くなられた後、「夏草」会員は、「天為」「藍生」「屋根」「花鳥来」の4つの結社に分かれた。しかし兄妹結社という思いを、私の所属する深見けん二の「花鳥来」の誰もがそうした...
安東次男は、加藤楸邨の「寒雷」の草創期から投句をしているが、詩人として、芭蕉や蕪村や一茶を研究した評論家として、またフランス文学の翻訳家としても活躍していて、再び俳句へ戻るのは、平成2年の頃である。「寒雷」では、傍から...
鍵和田秞子先生に初めてお会いしたのは、平成12年12月9日のBS放送「俳句王国」へ出演したときで、その日の「俳句王国」の主宰であった。本番は翌日だが、前日からNHK松山で、顔合わせ、リハーサル、懇談会があった。隣合わせ...
岡本眸氏の作品に初めて触れたのは、〈桃ひらく口中軽く目覚めけり〉であったように思う。改めて戦後の現代俳句の秀句がテーマとなった書籍を見ると、どの書物にも登場している。 「俳句は日記」であるという信条を持つ岡本眸は、日...
緒方輝(おがた・てる)さんは、石寒太主宰「炎環」の小句会の一つの「石神井句会」で、6年ほどご一緒させて頂いた方である。私たちより、すこしご年配だったように記憶している。穏やかな方で、熱心な方で、いつも句会ではよい作品を...
3日続けて、俳誌「阿蘇」の方々の作品に触れることになった。きっかけは「阿蘇」と「花鳥来」に所属している友人から、1000号記念として刊行された『俳誌「阿蘇」合同句集』を頂いたことである。第百七十夜の、『虚子俳話』と並べ...
岩岡中正さんの、結社「阿蘇」も俳句の背景も、同じ九州人だからかもしれないが、長崎県生まれの夫と大分県生まれの私にとって、どこかしら懐かしさを感じながら拝見していた。 もう一つは、岩岡中正さんの著書『虚子と現代』にある...
宮部寸七翁を最初に知ったのは、田辺聖子著の『花衣ぬぐやまつわる・・』の中の杉田久女が熊本在住の中村汀女に会いに行く場面であり、句集『中村汀女 星野立子集』の三橋敏雄の解説の中であり、竹下しづの女の文章の中であった。 ...
宇佐美魚目の俳句に、私は長いこと近づくことができなかった。抽象絵画の前に佇って、強烈な美を感じ、引き込まれるような強さを感じるのだが、言葉が出てこない、鑑賞などとてもできない、そのような気がしていた。 今宵は、意...
石田郷子さんは、山田みづえ主宰の「木語」で学ばれた方であること、俳句雑誌でオフロードバイクに乗って一人で吟行に出るという写真と記事を拝見したことを思い出しながら、「千夜千句」を書いている。 私は車でなら、大型犬を横に...
「馬酔木」を去った大島民郎は、堀口星眠の「橡」に参加して、堀口星眠や相馬遷子たちとともに軽井沢を吟行し、高原俳句を切り開いた。 東京生まれの民郎だが、軽井沢での作品づくりが、のちに奈良に移り住むきっかけとなったのだろ...
寺井谷子さんの作品で一番先に覚えたのが、次に紹介する「蛍の夜」である。俳句を始めて、俳句を詠むときは必ず「季題」を自分の目で見るようにと指導された。というよりも、次の句会までに「蛍」の兼題がでると、矢も盾もたまらずに見...
私が小川芋銭を知ったのは、俳句文学館で見た俳誌「ホトトギス」であった。明治44年から45年(大正元)の一年間は、芋銭の飄逸な河童の表紙絵で飾られており、誌面にも芋銭の挿絵が何枚かちりばめられていた。明治45年1月号には...
もう30年ほど前のことになるが、私は、「鷹」の祝賀パーティーに蝸牛社の荒木の代わりに出席した。この日、「花鳥来」の吟行句会から直接、深見けん二先生とご一緒した。「みほさん、着替えないの?」と言うや、けん二先生は駅の待合...
片山由美子さんの作品に面と向き合うのは、今回が初めてかもしれない。手元にあるのは第2句集『水精』と第4句集『風待月』と第5句集『香雨』と、平成7年刊の対談集『俳句の生まれる場所』である。 対談集を読み直した。片山由美...
秋山トシ子さんは、平成3年、深見けん二先生が創刊主宰された俳誌「花鳥来」に参加して以来の句友である。お互いに、「花鳥来」役員をしていたこともあって、先生を囲んでの会合でもよくお会いしていた。穏やかなお人柄は会員の皆から...
石井ひさ子さんは、石寒太主宰の「炎環」に所属されていて、その中の小句会「石神井句会」でご一緒した方である。私よりずっと年配で、何でも知っている素敵な先輩だが、同じ年に「炎環」同人となっているので、同級生の気分もある。 ...
平成元年、蝸牛社のテーマ別アンソロジー『秀句三五〇選4 愛』は、山本洋子さんの書き下ろしである。あとがきには、「与えられたテーマ〈愛〉は、私をおじけつかせた。最も苦手な命題。しかしまてよ。この際この〈愛〉に挑戦してみよ...
今井千鶴子さんは、平成元年に、私たちの師の深見けん二と藤松遊子と3人による季刊の個人誌「珊」を創刊した。藤松遊子さんは歩み半ばで亡くなられた。その後に、「夏潮」主宰の本井英さんが入られている。 数日前に届いたばかりの...
昭和63年12月に亡くなられた山口青邨の「夏草」門下は、一年を置いて、有馬朗人は「天為」、黒田杏子は「藍生」、斎藤夏風は「屋根」、深見けん二は「花鳥来」という4つの結社に分かれて主宰者となった。 有馬朗人氏は、世界的...
『寺田寅彦随筆集』の「からすうりの花と蛾」を読んだ私は、いつしか「烏瓜の花」を絶対に見たいと願うようになっていた。俳句の仲間を牛久沼を案内したときだ。この沼の高台にある小川芋銭居の入口で夕暮れを待った。 とうとう、レ...
平成7年(1995)刊行の『蝸牛 新歳時記』の編集作業の折、天文の季語「秋」に置かれた〈秋を病みやさしくなるは恐ろしき〉の句を見た瞬間、心にすとんと何かが響いたことを覚えている。当時、北九州市で俳誌「天籟通信」を主宰さ...
蝸牛社で出版した『碧梧桐全句集』編集に携わったのは、私が、虚子に連なる深見けん二に師事をはじめて数年後であった。 河東碧梧桐を師系とする作家瀧井孝作(俳号折柴)氏の次女・小町谷新子さんのご縁で出版の話が決まった。お預...
今宵は、檜紀代さんの『花は根に』から紹介させていたくことにする。本書は、蝸牛社の「俳句・背景」シリーズの14人目。33のテーマによる俳句と随筆のコラボレーションの中で、心の内を他人には覗かせないという作家もいれば、間近...
もう30年近く前になるかもしれない。ある結社の祝賀パーティーで藤木倶子さんは、「次に東京へ来たときにはお会いしましょう。」と夫に言い、ひと月後にお電話があったので、私も一緒にホテルのロビーでお会いした。そのときに戴いた...
大牧広氏の編著に、『秀句三五〇選 港』(蝸牛社刊)がある。あとがきには、「この三五〇句を鑑賞するに当たっては単なる客観に終始するのではなく、あくまで〈人の世の港〉という座標軸を据えて書くべきだと思っていた。」と、書かれ...
今宵は、『伊丹三樹彦全句集』から、第5句集『夢見沙羅』の花の作品を紹介してみよう。全句集を、久しぶりに読み返してみると、第一句集『仏恋』、第二句集『人中』の作品は「分ち書き」ではなかった。 あとがきに、「俳句を人間採...
プロフィールを調べていると、倉橋羊村氏は青山学院大学の大先輩であると知り、そして今年、令和2年2月11日にお亡くなりになられていたことを改めて知った。倉橋羊村氏の作品から仏教にかなり造詣が深い方であることは感じていたが...
もう30年以上も前になるが、宮坂静生氏は『秀句三五〇選21 虫』の編著者をお引き受けくださった。お忙しい先生は、原稿を書き上がった順に何回かに分けてFAXで送ってくださるが、当時のFAXは今ほどのスピードはなくて、一枚...
加藤耕子さんは、俳誌「耕」とともに英文俳句雑誌「Ko」の主宰を続けてこられているが、「Ko」に載せた日本語の俳句を英語に翻訳されたものが、アメリカやカナダで好評を博しているという。 今回、『花神 現代俳句 加藤耕子』...
稲田眸子さんの第二句集『絆』(花神社刊)から、夏の作品を紹介させていただこうと思う。 まくなぎの無数の影を薙ぎ払ふ 平成4年、蝸牛社のテーマ別アンソロジーの31巻『秀句三五〇選 影』の編著者としてお会いした...
平成26年7月、深見けん二の先生の「蛇笏賞」受賞の祝賀会が池袋にあるメトロポリタンホテルで行われた。長谷川櫂さんは、「深見先生、俳人としての最終目標が蛇笏賞受賞ではありませんよ。どうぞ益々お元気で、よい作品を見せ続けて...
終戦になった昭和20年に小説家の大仏次郎が、まだ疎開していた小諸の虚子を訪ねてきた。「朝日新聞の東京版に俳句を募集することにしようと思うのだが、その選をしてくれないか。」といった話だった。後に、募集句に評を加え、小俳話...
蝸牛社刊『俳句・背景17 おはいりやして』から、紹介させていただこう。このシリーズは、33テーマによる俳句と随筆の愉しい競演を意図したシリーズである。右ページに5句、左ページには右ページの作品の背景をお書きになる方が多...
月を眺めることが大好きである。満月の出は早いし、夫は、この時間帯は既に晩酌の一杯が入っているから月見の誘いに応じてくれない。黒のラブラドールレトリバーの一代目のオペラを番犬として、人っ子一人いない牛久沼の月見のポイント...
私が日々使う歳時記は、虚子編『新歳時記』、『蝸牛 新季寄せ』、平井照敏編『新歳時記』全5巻の3点である。平井照敏は『蛇笏と楸邨』所収「歳時記問題始末」に、「私は自分の歳時記(河出文庫版『新歳時記』)に本意の項目をつけた...
第一句集『虹の種』は、俳句を始めた19歳から28歳までの10年間の作品であり、その間には震災、大学、大学院卒業、就職、結婚があり、長男誕生のこの春に『虹の種』の刊行となった。 鑑賞を試みてみよう。 息継いで母は月...
坪内稔典さんには、まだ元気だった頃の出版社蝸牛社では、俳句背景シリーズの『縮む母』の著者、『一億人のための辞世の句』全3巻の編著者、また「船団の会」の若い俳人の「七つの帆」コレクションの7冊の句集出版など、様々にお世話...
中嶋隆さんとは、ある時期、石寒太主宰の「炎環」でご一緒していた方である。人生の大先輩であるが、同人同期ということから、どこか同級生の気持でつき合わせていただいている部分があった。句会へはいつも、美しく静かな奥様とお二人...
全ての予感を秘めて鎮もりかえっていた早春が過ぎて、桜の花へ心の高まりを一気に持ってゆき、その慌ただしさも過ぎて、花疲れの中でひと心地をついていると・・・。いつの間にか木々の梢は賑やかになり、いつの間にか少しだけ異なった...
八大竜王怒って雹を抛(なげう)ちし 青木月斗 掲句をみてみよう。 「雹」は夏の季題。積乱雲の発達によって、激しい雷雨にともない降る氷塊を「雹」という。初夏の頃、豆粒大から卵、さらには拳大の大きさにな...
この作品は「句日記」から『五百五十句』に入集されてはいない。だが『渡仏日記』には書かれており、フランスに入国した虚子の最初の作品である。 「五百五十句時代」として、特別に、紹介したいと思う。 三月二十七日にマルセイ...
春蟬の声一山をはみ出せる 『日月』 平成十五年五月十八日、けん二先生の句碑が伊香保温泉の「文学の小径」に誕生した。前日に伊香保入りされていたけん二先生ご一家はこの日、私たち「花鳥来」のメンバーを出迎えてくださ...
この春は、不思議な符合がいくつかあった日々であったように思う。 新型コロナウィルスのニュースが出た当初は、インフルエンザの一つかな、くらいに思っていた。中国の武漢の徹底した封鎖のニュースが届き、横浜に停泊中の型客船に...
『渡仏日記』には、三月六日に彼南(ペナン=マレー半島の西海岸)に下りて蛇寺に行き、途中で日本と同じ香の稲田を見たとある。その後、エジプトのスエズに入港する三月二十一日までは、『五百五十句』に作品は入集されていない。 ...
十五 稲妻のするスマトラを左舷に見 三月五日。新嘉坡碇泊。日本人共同墓地に二葉亭四迷の墓を弔ふ。敬二、楠窓同道。章子は途中空葉居に下車。帰途敬二居に立寄り帰船。正午出帆。 ■この句の背景 この日、日...
シンガポールは、赤道に近いため一年中暑い。筆者の私は、八月に訪れたことがあるが、樹木は驚くほどの丈で鬱蒼として、自分の体温より暑さの中で、湿気と熱気をまとい通しだったことを覚えている。 十一 ...
欧州旅行への船旅が、ヨーロッパの入口のフランスのマルセーユ港に着くまでの主な作品を、しばらく「千夜千句」で続けて紹介してみることにする。 十 春潮や窓一杯のローリング 二月二十九日。朝、香港出帆。 ...
今回、欧州旅行の箱根丸が碇泊した最初の外地が中国の上海である。長江の最下流部を揚子江と呼んでいるが、その濁った揚子江から支流の黄浦江を遡ったところに上海の港がある。 九 上海の霙るる波止場後にせり 二...
今日は母の日。戦後の昭和二十年生まれの私が「母の日」を知ったのは電車に乗って中学校に通い始めてからであったと記憶している。アメリカの「母の日」のことが、テレビで話題になっていた。都心の駅前の花屋さんやケーキ屋さんの前を...
五百五十句時代における、虚子自身の一番大きな出来事は、初めての欧州の旅である。 虚子の渡欧は、数年前から勧められていたが、ようやく機が熟した。音楽留学でフランスに十年も滞在中の二男の友次郎を一度は訪ねたかったこと、ド...
元となっている『五百五十句』鑑賞は、俳誌「鋼(あらがね)」に連載していたものだが、廃刊となり、昭和十一年から十五年までの内の十二年までしか鑑賞は仕上がっていない。『五百五十句』の半ばであるが、全句の鑑賞を試みるつもりな...
句集『五百五十句』は、昭和十一年から十五年までの作品が収められ、「ホトトギス」五百五十号を記念して昭和十八年に刊行された第二句集である。また、発行年の昭和十八年二月二十二日に満七十歳を迎えた虚子の古稀記念ともなった句集...
高柳重信を師と仰いでいる夏石番矢氏の編著『蝸牛俳句文庫13 高柳重信』を、本書の編集で300句の作品に感動しながら読んだ日々を思い出しながら、今、再び手にしている。このブログ「千夜千句」は短いので、重信ならではの多行形...
富澤赤黄男の作品は、句の意味を探ろうとすると手強く、難解だと思うと罠に落ちそうになる。四ツ谷龍氏の編著『蝸牛俳句文庫16 富澤赤黄男』の初稿を、編集で拝見したときのドキドキした気持ちを思い出しながら、素直に鑑賞してゆけ...
守谷市で「円穹(えんきゅう)」俳句会が生まれたのが平成十六年、私の記憶も定かではないが、星川和子さんとの出会いは数カ月後の手賀沼吟行であったと思う。 どこか淋しそうな面立ちであった。夫を亡くし、さらに父を亡くし、仙台...
伊藤通明氏は、『蝸牛俳句文庫 久保田万太郎』『秀句三五〇選 鳥』『秀句三五〇選 海』などの著者としてお会いしたが、同じ九州出身ということもあり今も懐かしい方である。 鑑賞を試みてみよう。 夕月や脈うつ桃をてのひら...
俳句入門は、鹿児島県有数の進学校ラ・サール高校二年のとき、短歌俳句部に入部したことに始まる。馬酔木系の俳人が鹿児島大学から来講し、そこに国語の先生方も加わって、みな平等に名を名乗らずに句会をしたという。さぞ楽しかったこ...
宇多喜代子氏の略歴から、俳句のきっかけが正岡子規門の石井露月の師系であったことを知った。何だかうれしくなって、書棚にあった宇多喜代子著『わたしの名句ノート』を開いた。そこには、冒頭から高浜虚子、正岡子規、石井露月の句が...
飯島晴子氏の作品は「先ず写生がある」と言われているが、言葉にして鑑賞しようとすると、どれもむつかしい。 考えてみようと思う。 うしろからいぼたのむしと教へらる 『春の蔵』 吟行での作品のように見える。「いぼ...
本阿弥書店刊『新・俳句の杜3 俳句アンソロジー』を拝見した。小澤克己氏は、俳句をはじめて三十年、句作の上で意識してきたテーマは詩性(ポエジー)であり、その中でも「星空とメルヘン」は大きな要素を占めていたという。 そし...
犬の夜の散歩の帰り道は西空を眺めながらとなる。四月の初め頃、西空に大きく瞬いている光に気づいた。飛行機だったら動くし、大きな星なら金星だと思うけれど、驚くほどの大きさであった。戻ってからネットで調べると、「金星は、令和...
あひ年の先生もちて老の春 『水竹居句集』 作品をみてみよう。 大正十一年、東京駅前に丸ビルが落成した時にイの一番に申し込んできた店子の中に俳人虚子がいた。当時の三菱地所部長であった赤星水竹居は驚いた。そ...
仰向きに椿の下を通りけり 『たけし句集』 鑑賞をしてみよう。 「椿」は、咲きながら枝葉の間から押し出されるかのように落花する。一花は、花びら一枚一枚と雄蕊が全てつながった構造なので、枝にある時の形のままに落ち、上...
『花神現代俳句20 林 徹』中の第三句集『群青』から、作品を紹介させていただく。 鑑賞をしてみよう。 炎天や生き物に眼が二つづつ 『群青』 林徹の代表句のひとつである。「生き物に眼が二つづつ」は、そのまんまとも...
夜光虫身に鏤めて泳ぎたし 『一芸』 夏に発生する「夜光虫」は、海洋性のプランクトン。大発生すると夜に光り輝いて見えることからこの名が付いたが、昼には赤潮として姿を見せる。赤潮は災厄だが、夜の海を青くみせる夜光虫の燐...
今宵は、『蝸牛俳句文庫10 松瀬青々』茨木和生編著から、松瀬青々の作品を紹介させていただくことにしよう。 私の知る松瀬青々は、正岡子規存命中に「ホトトギス」の編集をしていたこと、細見綾子が最初に師事したのが「倦鳥」主...
ジョッキ宙に合する音を一にせり 『往来以後』 (じよつきちゆうにがつするおとをいつにせり) 掲句をみてみよう。 「ジョッキ」が「「ビール」の副題として認められて間もない頃に詠まれたのだと思う。岸風三樓の師で...
春行くや手話もゆるやか島のバス 『円穹』 掲句は、「天為」の有馬朗人主宰も参加しての上五島吟行で作である。観光客を乗せた島のガイドさんは言葉も動作もゆったりしている。手話も、どことなくゆるやかだ。 同時作の...
「鶴」同人である従姉妹から頂いた、俳人協会の自註現代俳句シリーズ『大石悦子集』を魅了されながら読んだ日のことを思い出した。自註に救われたが、目を瞠るほどの中国から日本の古典の知識の広さ深さがある。 そして驚くのは、十...
じゃんけんで負けて螢に生まれたの 『空の庭』 この作品を鑑賞してみよう。 争いが苦手だから、私は、競争の一つでもある「じゃんけん」が弱かった。 だが掲句の「負けて」「螢に生まれたの」と続く言葉からは、...
角川源義と言えば、角川書店の設立者であり、俳句だけでなく文壇、歌壇など文芸界全般をリードした一人である。 俳句は中学時代から興味を持ってをり、昭和二十二年、金尾梅の門の「古志」が創刊されると幹部同人として参加する。第...
タイトルには季語を入れることが多いが、今回は「兄いもと」とした。 兄と妹、姉と弟という二人はじつに仲良しだ。兄と姉は年下の「いもうと」や「おとうと」に絶対的な権力をもっている。わが家の、年子の姉と弟の場合もそうだった...
酔ひ諍ひ森閑戻る天の川 『石塚友二句集』 掲句の背景を見てみる。 石塚友二の、生活にのたうち酒なしではいられない若き日の作品は、他人事とは思えない辛さを感じる。書店に勤め、小説家志望で横光利一に師事し、沙羅書...
無礼なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ 『無礼なる妻』 「妻」を考えてみよう。 私は長いこと、橋本夢道の〈無礼なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ〉と、秋元不死男の〈火だるまの秋刀魚を妻が食はせけり〉の句が渾然とな...
知恵伊豆の墓はこちらと囀れる 『三角屋根』 知恵伊豆の墓とは松平伊豆守信綱のことで、埼玉県新座市の平林寺にある大きな墓所である。江戸時代前期の大名で川越藩藩主。老中。官職の伊豆守から「知恵伊豆」(知恵出づとか...
夢に見れば死もなつかしや冬木風 『富田木歩句集』 作品を鑑賞してみよう。 掲句は、「夢に見れば死もなつかしや」をどう読むかであろう。 木歩は父や母や弟や妹たちの死を間近に見ていた。木歩自身も、蹇(あしなえ)だけ...
初桜男同志も恋に似て 『新歳時記』平井照敏編 今年の桜の時期は、新型コロナウィルスが世界中に蔓延して、日本も、最初はなるべく外出は控えるように国から言われ、娘の会社はテレワークになり、その次には、東京を初めとして七...
渡辺水巴(わたなべ・すいは)は、明治十五年(1882)―昭和二十一年(1946)、東京都台東区生まれ。父は近代画家の渡辺省亭。水巴は明治俳句で身を立てることを志し、明治三十四年、内藤鳴雪の門下生となり、終生俳句以外に職...
原石鼎(はら・せきてい)は、明治十九年(1886)―昭和二十六年(1951)、島根県出雲市生まれ。中学時代より俳句に親しみ、明治四十五年、「ホトトギス」に投句。医業を継ぐはずであったが、文学への思い絶ちがたく、放浪のの...
与謝蕪村(よさ・ぶそん)は、享保元年(1716)―天明三年(1783)、大阪市都島区毛馬村生まれ。俳諧師、画家。俳諧は早野巴人に学び、絵画は狩野派の手ほどきを受け、文人画を大成。俳画作品の「おくのほそ道」「野ざらし紀行...
生涯の口伝の一語高虚子忌 「珊」第125号・2020・春 今日は「虚子忌」。昭和三十四年四月八日に亡くなられた高浜虚子は、今年、没後六十一年目となり、最晩年の弟子の深見けん二は六十一回目の虚子忌を迎えることとなっ...