第三百五十一夜 佐藤和枝の「白桃」の句
佐藤和枝さんは、蝸牛社の『秀句三五〇選 画』の編著者として素晴しい俳句を集め、鑑賞してくださった。版画家のお兄様は版画のモチーフを得るために詩を書いているといい、和枝さんは吟行にゆくと、簡単なスケッチをするという。 ...
佐藤和枝さんは、蝸牛社の『秀句三五〇選 画』の編著者として素晴しい俳句を集め、鑑賞してくださった。版画家のお兄様は版画のモチーフを得るために詩を書いているといい、和枝さんは吟行にゆくと、簡単なスケッチをするという。 ...
高浜年尾は虚子の長男である。虚子は、2男6女という子沢山で、しかも子煩悩でつとに有名である。 大正9年、年尾が小樽商業高校に在学していたとき、丹毒で高熱を出した年尾の看病に駆けつけたことがあった。 次女の星野立子は...
もう10年ほど前になるが、平成21年、山梨県清里の標高1000米の里山に住む植物細密画家の野村陽子さんの『細密画で楽しむ 里山の草花100』(中経出版社刊、中経文庫)を企画し、細密画に添える文章を担当した。 作品を見...
水島直光さんが、深見けん二主宰の「花鳥来」と「花鳥来」の小句会「青林檎」に入っていらしたのは、平成7年である。第1句集『風伯』の序文に「花鳥来」に入会された経緯が書かれているが、直光さんは、高校の国語の先生で昼間は例会...
渥美清が俳句をしていることを知ったのは、雑誌だろうか、徹子の部屋だろうか、それとも「葛飾柴又寅さん記念館」だったろうか。雑誌「アエラ」主宰の「アエラ句会」ほか幾つかの句会で熱心に取り組んでいたという。俳句もいろいろ、だ...
数日前から、黛執(まゆずみ・しゅう)さんの作品を集めていて、今宵のブログに書こうとしていたとき、訃報が目に飛び込んできた。 驚いて夫に告げると、「そうか。お会いしたことがあったな。銀座の、鈴木真砂女さんの店の「卯浪」...
俳誌「みちのく」主宰の原田青児さんを思い出すときは、薔薇の咲くころである。たとえば、「みちのく」の会員の句集を蝸牛社から作らせて頂いたときのことだ。手紙のやり取り、完成した本をお送りしたとき、必ずのように薔薇のカードが...
多田裕計(ただ・ゆうけい)は、早くに芥川賞を受賞した小説家であるが多作家ではなかった。 師事した横光利一も小説家であり俳人で、裕計は、昭和10年頃に作られた横光利一の主宰する「十日会句会」に所属した。句会には小説家志...
角川『新版・俳句歳時記』の中の八木林之助の句に、「母を置きざり」の措辞を見つけた。母と息子は、母と娘よりもう少し複雑な関係である。娘よりずっと母恋の心は強く、その反面、近寄りたくない気持ちも強いというややこしさがある。...
今宵は、2度目となるが、ホトトギスの俳人京極杞陽の「震災忌」の作品から紹介してみよう。 わが知れる阿鼻叫喚や震災忌 昭和33年 電線のからみし足や震災忌 関東大震災で一度に祖父母、父母、弟妹を失ったショ...
蝸牛社のシリーズの、渡辺恭子編著『秀句三五〇選 香』の中で、江戸時代中期の俳人・大伴大江丸の作品に出合った。見たことのある名前だったので『俳文学大辞典』で調べてみた。 飛脚問屋として日本一というほど手広く商売した人物...
昨夜、河東碧梧桐の妻茂枝の兄の青木月斗を紹介しているうちに、碧梧桐の初期の頃の作品に触れてみたくなった。碧梧桐は7歳の時に、兄を訪ねてきた正岡子規と初めて出合っている。その時の子規の、横に切れた目と、への字に曲がった口...
青木月斗を知ったのは、蝸牛社から滝井孝作・栗田靖編『碧梧桐全句集』を出版した時であった。高浜虚子晩年の弟子の深見けん二の下で俳句を学んでいる私が、虚子のことを学ぶようになったのはその後である。 河東碧梧桐を調べていく...
泉鏡花の俳句を『秀句三五〇選 香』の中に見つけて、私は、映画『外科室』を思い出した。 最初の場面は、私もよく通った小石川植物園の古木の躑躅の道である。主人公の伯爵夫人がお伴を連れて歩いている、そこですれ違ったのが高峰...
皆吉司さんは、ホトトギスの俳人であり俳誌「雪解」の主宰であった皆吉爽雨の孫である。蝸牛社のシリーズでは、第23巻『秀句三五〇選 笑』の編著者として参加してくださった。 俳句の「笑い」を、次のような独特な表現で捉えてい...
今日は10月13日、日蓮忌。『蝸牛 新季寄せ』の忌日一覧の中で、篠原然さんの作品に出合った。 御会式の怒涛の中に立つてをり 第1句集『佐久の空』 (おえしきの どとうのなかに たってをり) 「御会式」...
松尾芭蕉が亡くなったのは、元禄7年10月12日。陰暦なので陽暦では11月12日。季語は冬である。しかし虚子は、昭和11年10月12日の句会「笹鳴会」で「芭蕉忌」の作品を投句している。 芭蕉忌や遠く宗祇に遡る 『五...
志解井司は、本名の姓の重石を分解し、志解井「しげい」、最後の「し」を「司(つかさ)」と読ませて俳号にした。 読書、書籍集め、原稿書き、晩酌が日常の人であった。俳句はその中の1つで、全ての俳句雑誌を毎月取り寄せて、投稿...
大きな台風14号が、日本の南の海上でグイーっと曲がって、どうやら直撃はなさそうである。しかし大きな円のどこまでが余波なのか、降っては止み降っては止み、気温は11月並に急降下している。 大型犬の黒ラブは、このところ、冬...
赤城さかえ、という名前なので、男性だと知ったのはかなり後のことであった。 私の父もまた戦前からの共産党員であり、俳句もしていて新俳句人連盟にも所属していたので、いつからか俳人赤城さかえを知るようになったが、こうして作...
令和2年8月、長崎県島原市にある夫の両親の墓参りをした。妹夫婦の案内で島原、雲仙、長崎を案内してもらったが、中2日という短い旅であり、遠回りをすれば日見峠の「去来の芒塚」を見ることはできたが、ハイウェイをぬけて長崎市へ...
今宵も、昨日に続いて蝸牛社刊のテーマ別シリーズから、辻桃子編著『秀句三五〇選 酔』を紹介してみようと思う。 「酔」の入っている作品は案外に少なかったという。「酔」のテーマの句をどのように探したか、一部であるが、桃子氏...
10月始めからの月を追いかけて、草臥れて、ここ数日は蝸牛社刊『秀句三五〇選』シリーズを眺めていることが多かった。このシリーズは、先にテーマを決めてから先生方に依頼したものだが、6巻目の「死」の編著者の倉田紘文先生も、こ...
長谷川櫂さんのお名前を知ったのは、夏石番矢編『俳句 百年の問』の中の「季語と切れはオリジナル」(原題『俳句の宇宙』の一部)の文章だったように思う。深見けん二師の下で、「季題」「写生」「切れ」などはかなり厳しく言われてき...
令和2年の10月1日の十五夜、2日の満月と、美しい月夜がつづいた。「雨月」「無月」は、又の機会に書いてみよう。雲量の多い重たいほどの昨日今日だが、満月の出を見にはしゃぎすぎた。 今宵は、「秋の雨」の句を見てみようと思...
菊田一平さんと最初に出会ったのは、石寒太主宰「炎環」の「石神井句会」である。この句会は、2句投句で、1句は当日に題が出される。すこし早めに行くが、お喋りどころではなく、みな必死に考え込んでいる。その人らしい作品が飛び交...
第2句集『華厳』の虚子の序はただ一行、「花鳥諷詠骨頂漢」である。 茅舎は、この序文を非常に喜び、後記に「一本の棒のような序文は再び自分に少年の日の喜びを与えて呉れる。さうして花鳥諷詠する事も亦一個の大丈夫(だいじょう...
地球は、1日に1回、自転しながら1年かけて太陽の周りを回っている。月は太陽の光に照らされて、約1と月かけて地球の周りを回っている。すると、月に太陽の光が当たるのは1と月の半分で、月は15日をかけて大きくなりながら満月に...
平成元年、私の俳句の一歩は、カルチャーセンターの深見けん二教室から始まった。その年の秋、次回の兼題は「虫」であった。 ある夜、仕事が一段落したので、外へ出ようと玄関を開けた。 その途端だ。鳴く虫の一斉攻撃に襲われた...
出会った鰯雲で、今でも思い出すのは、寄居の父母の墓参からの帰途、関越自動車道の花園インターチェンジに入った直後から、長くて巨大なスケールの鰯雲の下をかなり長いこと並走したことである。 鰯雲を眺めていると、いろいろな気...
今宵は、飯田蛇笏と芥川龍之介の俳句を通しての交友を見てゆこう。 たましひのたとへば秋のほたるかな 『山廬集』 この作品は、前書に「芥川龍之介氏の長逝を深悼す」とある。俳句に始まり、文通を交わしていた友が、自害した...
今宵は、倉田紘文編著『秀句三五〇選 水』より、作品を紹介してみよう。 1句目の豊長みのる氏は、昭和6年神戸に生まれ、俳句は山口草堂に師事。昭和61年に「風樹」を創刊主宰。蝸牛社刊の豊長みのる編著『秀句三五〇選 音』が...
今宵も、「女」を詠んだ虚子の句を紹介してみよう。 稲妻をふみて跣足の女かな 『五百五十句』昭和12年 (いなづまを ふみてはだしの おんなかな) 昭和12年9月11日。二百二十日会は、丸ビル集会室で行われた。 ...
『喜寿艶』は、虚子が77歳の喜寿を記念して造られた句集である。明治26年から昭和24年までの77句プラス制作年不詳の1句を加えた78句が収められていて、奇数ページには虚子の自筆、偶数ページには作品と短い自解が入っている...
2年前のこと。詩人の父・沢渡恒(さわたり・ひさし)さんと詩人の母・坂窗江(さか・まどえ)さんを両親に持つ沢渡梢さんから、私は、300通のラブレターの束と、両親の詩集と、若くして亡くなられた父・沢渡恒の戦後の小説を見せて...
団栗(どんぐり)の句を探していた。「木の実(このみ)」とは、どう違うのだろう。 講談社の『カラー図説 大歳時記』を始め、歳時記や季寄せには、「木の実」と「団栗」は別の項目が立てられている。だが、山本健吉の『山本健吉 ...
大学の英文科1年生の科目の1つに英語音声学があって、教えてくれたのは老教授であった。母音や子音の発声を、実際に音を出す口の形で教えてくれた。[u]を発音するときは口を窄めて突き出す形になるから、19歳の女生徒たちは皆、...
朝晩の犬の散歩では、ようやく、秋風を感じる日々となってきた。明日は秋分の日。太陽が黄経180度の秋分点を通過する日で、この日までは昼が長く、夜が短いのであるが、秋分の日に昼夜が等分となり、それからは徐々に夜の方が長くな...
植物の名を詠み込んだ俳句の中で、一番先に名の面白さに惹かれたのが高浜虚子の「吾亦紅」であった。所属結社の「花鳥来」で、私が、高浜虚子編『新歳時記』の中から選んで一句鑑賞をした作品である。 今宵は、花の名の由来を考...
昭和24年、高浜虚子は疎開先の小諸から自宅の鎌倉へ戻ってきた2年後に詠んだ、「銀河」の一連の作品がある。詩情に惹かれつつ、句意をはっきり掴むことはできなかった。 夜空を仰ぐことは大好きだが、月の大きさと夜空での月の位...
笹目翠風さんが、平成7年から平成30年まで主宰をしていた「礦(あらがね)」誌上で、私は、虚子研究の原稿を長く書かせていただいていた。 翠風さんの師である清崎敏郎(きよさき・としお)と私の師の深見けん二は、昭和29年よ...
明治28年、新聞「日本」の記者であった正岡子規は、明治27年に勃発した日清戦争の従軍記者として志願して出兵した。どうしても自分の目で戦というものを見て確かめておきたかった。 だが、朝鮮半島へ到着したときには戦争は終わ...
長谷川櫂氏の編著書『現代俳句の鑑賞101』の中で、私は、初めて上野一孝さんの俳句にお目にかかった。そして25句の最後の、「龍の玉」の句に惹かれた。 「龍の玉」と言えば、高浜虚子の〈龍の玉深く蔵すといふことを〉の句を思...
今日9月15日は、平成14年までは「老人の日」と呼ばれ、日本の国民の祝日の一つであった。その後、平成15年からは、「敬老の日」として9月の第3月曜日となった。今年の敬老の日は、土日、敬老の日、秋分の日と4連休となる人が...
今年の9月は、残暑が厳しすぎて、まだ本当の「秋晴」を感じる日はなかったように思う。 「秋晴」の例句を探していて気づいたことは、主題「秋晴」と、傍題に「秋日和」と「秋の晴」があったことである。 「秋の晴」という言い方...
今晩、友人の友人が企画制作した「オランウータン孤児 ”いのちの学校”」というNHKの報道番組を観た。 密猟や乱獲のため母親を奪われて置き去りになったオランウータンの孤児たちは、そのまま放っておけば死んでしまう。オラン...
昨日は二百十日。残暑も厳しく、この頃には台風もよくやってくるという日で、夜空には、星も、まして天の川(銀河、銀漢)がはっきり見えるほど澄んではいない。 夜の9時にゆく犬の散歩では、ここ数日、地平から半分ほどは雲で覆わ...
今宵は2度目となるが、中経出版刊の『名句もかなわない 子ども俳句170選』から秋の句を紹介してみよう。 台風がいねのドミノをたおしてく 小5 小関正憲 下段に書いた、あらきみほの短文である。 「ノンちゃん...
取手市の利根川は、広い河川敷が緑地運動公園となっていて、どんど焼き、凧揚げ大会、花火大会など様々な行事が行われる。東京から越してきた当初は、なにもかも珍しくて、情報が入るや、犬の散歩も兼ねて、どんな行事も見に出かけた。...
平成14年、金子兜太監修・あらきみほ編著の『名句もかなわない 子ども俳句170選』が中経出版社から刊行された。それ以前に、蝸牛社から『子ども俳句歳時記』『小学生の俳句歳時記』を金子兜太監修の下に出版している。 子ども...
『自註・菊池麻風集再誦』は、平成29年10月30日、俳誌「麻」50周年記念会の1年後、嶋田麻紀主宰より贈呈くださったものである。 本著のあとがきに、嶋田麻紀主宰は、こう書いている。 「この『自註・菊池麻風再誦』は、...
百万本と石寒太さんとの出会いは、石寒太主宰の結社「炎環」が生まれる前からの、思い出してみれば、出版の仕事を通じて知り合った長い付き合いである。 当時は、会えば酒席となり、話は延々と弾み、出版の企画が生まれ、俳句の企画...
虚子『五百句』輪講の、「野分」の作品鑑賞は、私あらきみほが担当した。 ここ数日、これまでにない大型の台風10号が奄美諸島、沖縄近くにきて、これから九州の西側を縦断して朝鮮半島に向かうという。ニュースでは、台風の大きさ...
加古宗也さんは、出版社蝸牛社が新しい俳句シリーズをスタートしたテーマ別『秀句三五〇選』で、第9巻目の「月」の編著者として書いてくださった。 最初にお目にかかったのが、愛知県西尾市のご自宅で、当時は義父であり俳句の師で...
井上まことさんの著書『季語になった魚たち』をもう少し見ていこう。お惣菜として食べている魚であるが、漁師たちが釣り上げた後の、魚の美味しさを逃さない工夫の行程など、私が知らずにいたことがたくさんある。 年末のお歳暮用品...
井上まことさんの義父は「夏草」主宰であった山口青邨である。 25年以上も前になるが、当時、私も所属していた斎藤夏風先生の「屋根」の句会でお会いして、お話をさせて頂いたことを思い出している。その後、著書『季語になった魚...
昨夜9月1日、犬の散歩で玄関を一歩出るや、私は、虫たちの声にわーんと囲まれた。不思議だったのは、虫たちの声が草むらの中からではなく、もう少し高いところからの一斉に鳴いている「わーん」とした声であったことだ。 虫の声が...
私が、島村元を知ったのは、ホトトギスの本田あふひの甥であることを知った後である。あふひの夫の本田親済男爵の妹の長男が島村元であった。本田親済と同じく、虚子と能の仲間であり鎌倉能楽堂をともに建てた父島村久の影響で、元は俳...
飯田蛇笏は、高浜虚子が小説から俳句へ復帰し、雑詠欄をスタートさせた時に全国から力量のある作家たちがこぞって投句した一人で、渡辺水巴、原石鼎、前田普羅、村上鬼城らとともにホトトギスの第一期黄金時代を代表する作家である。 ...
宮武寒々(みやたけ・かんかん)の寒々という名前はユニークなので歳時記などで見かける度に心を留めていたが、作品を知ったのは、蝸牛社刊の『秀句三五〇選4 愛』であった。 今宵は、寒々の作品をいくつか考えてみよう。 ...
昭和19年には、戦局が刻々と厳しさを増してきていた。空襲の危機のある鎌倉では足の不自由ないと夫人が心配なこともあるので、虚子は昭和19年9月4日に鎌倉の住居をあとにして、五女の高木晴子一家のご縁で長野県北佐久郡小諸町野...
昭和20年代、私が小学生だった頃には、どこの家にも網戸があったわけではなかった。夏の夜の電灯が煌々とし始めると、林や野原から虫たちが飛んできた。 大分県から東京に来て杉並区に建てた我が家はささやかであったが、左隣には...
鈴鹿野風呂の名を知ったのは、ホトトギスの日野草城を調べている時であった。朝鮮の京城で過ごしていた草城は、大正7年に京大三高入学を機に京都住まいとなり「神陵俳句会」を結成し、大正9年に鈴鹿野風呂、五十嵐播水と出会った。や...
暫くは、秋の虫の句を探してみよう。 蓑虫を知ったのは、小学校の理科の時間に教わった帰り道で、普段は女の子に意地悪な男の子が、「ほら、これがミノムシなんだぜ」と、教えてくれた記憶がある。ミノムシは木にぶら下がっているか...
蟋蟀(こおろぎ)の句と言えば、だれもが一番に思うのが青邨の蟋蟀であろうか。 昭和6年、青邨が39歳の時に東京都杉並区和田本町のこの家に移り住み、生涯をここで過ごした。書斎兼自宅を「三艸書屋(さんそうしょおく)」と呼び...
夜の犬の散歩に出ると、虫の音が日に日に賑やかになっている。「蟋蟀」の句を探したとき、蝸牛社の『秀句三五〇選21 虫』の中の赤松蕙子の作品と出合った。 今宵は、赤松蕙子の俳句を紹介させていただく。 蟋蟀をこはさ...
私は、晩秋に生まれているので、春よりも夏よりも、だんだん寒くなる頃の冬日が好きである。ブログ「千夜千句」の第二百八十一夜の五十嵐播水の項では、播水夫妻の結婚30年のお祝いに虚子は、〈地球一万余回転冬日にこにこ〉の句を贈...
この令和2年の夏は、何かが違っていたが何かであることも忘れていたほどの猛暑であり、しかも長いコロナ禍からも抜け出せていない状況である。 今年の8月が例年と違っていたのは、そう、花火大会であった。取手、手賀沼、常総市か...
安積素顔(あづみ・そがん)は、昨夜の第二百八十二夜の千原叡子さんの父君。昭和16年から俳句を始めていた素顔が、虚子と直接会ったのは、昭和20年である。ホトトギスの西山泊雲の墓参り(昭和19年に亡くなった)と、但馬の和田...
千原叡子さんの父・安積素顔さんの作品集『十三代』を読み返していたときであった。 届いたばかりの所属結社「花鳥来」の句会報に、ホトトギスの同人でもある山田閠子さんの作品に、悼千原叡子様の詞書とともに〈明易や虚子のもとへ...
五十嵐播水について一番に思い出したことは、虚子の句集「七百五十句」の昭和29年12月19日にある〈地球一万余回転冬日にこにこ〉の句である。 播水夫妻の結婚30年の虚子からの祝句で、明るく目出度い句柄である。季題は、虚...
横光利一の俳句に出合ったのは、高浜虚子の句集『五百五十句』の鑑賞を試みていた最中であった。『五百五十句』は、昭和11年から15年の作品が収められており、昭和11年というのは、虚子が「箱根丸」でヨーロッパ旅行をした年であ...
金子光晴との出合いは、およそ50年前になる。出版界を夢見ていた夫は大学卒業後、一度は地元長崎に戻って教員をしていたが、4年後、東京に出た。 同県人の先輩、朝日新聞社学芸部の浜川博さんは、出版社の路線を決める際に相談に...
河原枇杷男氏は、永田耕衣に師事していたという。 私の所属結社は深見けん二主宰の「花鳥来」。高浜虚子の最晩年の愛弟子といわれる俳人であるが、私はホトトギスだけでなく、俳句の広い世界を見せてくれるかのように、「花鳥来」誌...
原裕は、原石鼎の実子だと思っていた。しかしそうではなかった。俳句には、偶然に惹かれたという。原裕が15歳のとき終戦を迎え、何をすればよいのか解らず、全くの虚脱状態であった。そうしたときに、書店で触れたのが「鹿火屋」だっ...
今井杏太郎の俳句は、精神科医として勤務医から貨物船の船医に転身した時に、「ホトトギス」の俳人だった船長、機関長らと船上句会をしたことに始まる。その後、医院を開業し、「馬酔木」同人に指導を受ける。「鶴」に入会したのは昭和...
大井雅人を知ったのは、蝸牛社の編集の過程では秀句三五〇選シリーズの『虫』や『夢』、そして父の書棚に、立風書房の『現代俳句案内』を見た時である。 今回読み返して思ったのは、30年前の、わさわさした筆者の私には、受け止め...
平成26年7月10日発行、安原葉の第3句集『生死海』を戴いていた。お名前と真宗大谷派紫雲山安浄寺のご住職であることは存じ上げていたが、作品は詳しくは存じてはいなかった。まず、帯に書かれている、親鸞の言葉の引用であるとい...
長崎旅行2日目も夕方となった。標高333メートルの稲佐山は、長崎港を見下ろす位置にあり、対岸の夜景が湾に映って美しく、函館、神戸とともに夜景3大スポットとして名高い。 夫の実家は島原にあり、姉夫婦は長崎市内、妹夫婦は...
8月5日、長崎旅行の2日目。平和公園、原爆資料館、日本二十六聖人の像を見た後は、夫の姉がセッティングしてくれたホテルニュー長崎の13階にある「中華料理 桃林」へ行った。見晴らしがよいのに、美味しいコース料理の合間はお喋...
昭和20年8月9日、アメリカの原子爆弾の2発目が長崎市に落とされた。広島に落とされた8月5日の1発目に続く第2発目である。昭和20年は、私の生まれた年でもあるし、戦後◯◯年といえば、即ち私の年齢となる。 今回の旅...
ブログ「千夜千句」は、基本、その日に書いている。だが、今回の8月4日から6日まで二泊三日の長崎旅行は、きちんと時系列にせずに書きはじめてしまった。 今宵は、第1日目の8月4日、夫の妹夫婦が長崎空港に出迎えてくれて、荒...
8月、急に夏休みがとれた娘から、長崎旅行の案内役に誘われた。というのは、夫は島原出身で、私も大学卒業後に出身校と同じプロテスタント系の活水女学院の高等部の英語教師として3年間、長崎市に住んでいたからである。 諫早市に...
今宵は、令和2年8月6日、私は、夫の故郷の長崎から戻ってきたばかり。五島列島まで足を伸ばすことは叶わなかったが、この旅では、彫刻家の舟越保武による日本二十六聖人記念碑「昇天のいのり」を見た。私たちは、この記念碑を「日本...
今の時代は、便利なベープマットやスプレー式の殺虫剤がある。蠅叩が家に常備しなくなって長い年月が過ぎたように思うが、蠅叩も売られている。薬品の匂いを好まない人もいるのだろう。 長い梅雨がようやく終わり、コロナは居座って...
昭和32年の7月13日から16日まで、千葉県鹿野山神野寺の夏行句会が行われた。『句日記』の15日の句は29である。この日の句会の合間、籐椅子に身をやすめているときに虹を見たことで、虚子は、虹にまつわる様々なことが泛かぶ...
千葉県君津市にある鹿野山神野寺に虚子の歯塚が建立され、昭和33年7月20日にその歯塚除幕式がとり行なわれた。 神野寺というのは、ホトトギス同人の川名句一歩(かわな・くいっぽ)や山口笙堂(やまぐち・しょうどう)がそれぞ...
『観自在』の句集を頂戴していた。まず、タイトル『観自在』の意味を調べてみた。 あとがきには、次のように書かれている。 「観音菩薩のことだという。自在に衆生の苦を察知し、それを度し合う菩薩ということかと思う。」 「...
加藤楸邨の句風とは、水原秋桜子の「馬酔木」調を脱して内面的苦悩の色を濃くしたもので、難解句と言われるようになった。「人間探求派」と名付けられたのは、昭和14年「俳句研究」8月号の座談会での発言からである。この座談会の司...
平成8年(1996)、有馬ひろこ氏の第1句集『ザビエル祭』が富士見書房から出版された。その折に、私は「花鳥来」で句集評を書かせて頂いたが、高浜虚子―山口青邨に連なるという同じ系列にいても、これほどに作品の詠み方が違うこ...
昨日、岩手県北上市の詩歌文学館館報「詩歌の森」第89号が届いた。ここへは、「花鳥来」と「屋根」の合同吟行で訪ねたことがあった。岩手県には石川啄木や宮沢賢治がいる。辺りから風の又三郎が出てきそうな中をゆくと詩歌文学館の一...
平成31年、俳人協会の自註現代俳句シリーズ『小圷健水集』が出版された。 健水さんが、深見けん二に師事したのは、昭和47年、同じ勤務先の日本工業中央研究所の俳句部に入部したことに始まる。平成元年に深見けん二主宰の「F氏...
虚子が亡くなったのは昭和35年の4月8日、戒名は「虚子高吟椿寿居士」。その2日前の6日、宝生流能楽師・高橋進(俳号・すゝむ)や安倍能成が見舞ったとき、虚子の妻・いとの頼みで虚子の枕頭で謡ったのが虚子の好きだった「鞍馬天...
平成3年、深見けん二は、師山口青邨の没後に「F氏の会」から発展させた「花鳥来」を創刊主宰した。その後間もなく、小句会の1つとして「青林檎の会」が始まった。 けん二先生のご指導の下で、楽しく厳しく、俳句に関して何でも意...
私にとって山口青邨を身近に感じたエピソードが一つある。 「明日開きます。見にいらっしゃいませんか。」という、佐々木邦世ご住職(現中尊寺仏教文化研究所所長)のお電話を戴いた夫と私は、真夜中に東北自動車道を飛ばした。 ...
昭和26年2月1日、虚子庵を訪れた下田実花一行というのは、前年の昭和25年10月に発足した「艶寿会」のメンバーであった。ホトトギスの小句会「艶寿会」の会員は、新橋の芸者仲間の小くに、小時、下田実花、武原はん、歌舞伎役者...
『実生』は、『立子句集』『続立子句集』『笹目』に続く第4句集である。まず、父高浜虚子の序文に驚いた。それは、立子が俳誌「玉藻」の主宰となって以降、虚子が「玉藻」主宰者としての立子の成長を祈るような思いで、毎月欠かすこと...
東都書房から、昭和30年刊行の『虚子俳話』と昭和35年4月8日刊行の『虚子俳話』(続)があり、続篇には、晩年の紀行・随筆が転載されてある。 一つは、随筆「私─(家)─」中の、昭和34年の1月、改築を終えた書斎の机に向...
虚子の俳句人生には折々に絵巻物のような出来事があったが、長生きした人の晩年というのは、そこに関わった人たちが本人より先に亡くなってしまうことでもある。 第5句集「七百五十句」では、虚子はさまざまに過去に思いを馳せてお...
虚子の第5句集「七百五十句」は、虚子の没後に長男高濱年尾と次女星野立子によって句を選ばれている。昭和26年虚子78歳から昭和34年3月30日まで、虚子が最後の「鎌倉句謡会」を終えて、その日の句を「句日記」に書き留めた作...