第二百九十三夜 飯田蛇笏の「秋のほたる」の句
飯田蛇笏は、高浜虚子が小説から俳句へ復帰し、雑詠欄をスタートさせた時に全国から力量のある作家たちがこぞって投句した一人で、渡辺水巴、原石鼎、前田普羅、村上鬼城らとともにホトトギスの第一期黄金時代を代表する作家である。 ...
飯田蛇笏は、高浜虚子が小説から俳句へ復帰し、雑詠欄をスタートさせた時に全国から力量のある作家たちがこぞって投句した一人で、渡辺水巴、原石鼎、前田普羅、村上鬼城らとともにホトトギスの第一期黄金時代を代表する作家である。 ...
宮武寒々(みやたけ・かんかん)の寒々という名前はユニークなので歳時記などで見かける度に心を留めていたが、作品を知ったのは、蝸牛社刊の『秀句三五〇選4 愛』であった。 今宵は、寒々の作品をいくつか考えてみよう。 ...
昭和19年には、戦局が刻々と厳しさを増してきていた。空襲の危機のある鎌倉では足の不自由ないと夫人が心配なこともあるので、虚子は昭和19年9月4日に鎌倉の住居をあとにして、五女の高木晴子一家のご縁で長野県北佐久郡小諸町野...
昭和20年代、私が小学生だった頃には、どこの家にも網戸があったわけではなかった。夏の夜の電灯が煌々とし始めると、林や野原から虫たちが飛んできた。 大分県から東京に来て杉並区に建てた我が家はささやかであったが、左隣には...
鈴鹿野風呂の名を知ったのは、ホトトギスの日野草城を調べている時であった。朝鮮の京城で過ごしていた草城は、大正7年に京大三高入学を機に京都住まいとなり「神陵俳句会」を結成し、大正9年に鈴鹿野風呂、五十嵐播水と出会った。や...
暫くは、秋の虫の句を探してみよう。 蓑虫を知ったのは、小学校の理科の時間に教わった帰り道で、普段は女の子に意地悪な男の子が、「ほら、これがミノムシなんだぜ」と、教えてくれた記憶がある。ミノムシは木にぶら下がっているか...
蟋蟀(こおろぎ)の句と言えば、だれもが一番に思うのが青邨の蟋蟀であろうか。 昭和6年、青邨が39歳の時に東京都杉並区和田本町のこの家に移り住み、生涯をここで過ごした。書斎兼自宅を「三艸書屋(さんそうしょおく)」と呼び...
夜の犬の散歩に出ると、虫の音が日に日に賑やかになっている。「蟋蟀」の句を探したとき、蝸牛社の『秀句三五〇選21 虫』の中の赤松蕙子の作品と出合った。 今宵は、赤松蕙子の俳句を紹介させていただく。 蟋蟀をこはさ...
私は、晩秋に生まれているので、春よりも夏よりも、だんだん寒くなる頃の冬日が好きである。ブログ「千夜千句」の第二百八十一夜の五十嵐播水の項では、播水夫妻の結婚30年のお祝いに虚子は、〈地球一万余回転冬日にこにこ〉の句を贈...
この令和2年の夏は、何かが違っていたが何かであることも忘れていたほどの猛暑であり、しかも長いコロナ禍からも抜け出せていない状況である。 今年の8月が例年と違っていたのは、そう、花火大会であった。取手、手賀沼、常総市か...
安積素顔(あづみ・そがん)は、昨夜の第二百八十二夜の千原叡子さんの父君。昭和16年から俳句を始めていた素顔が、虚子と直接会ったのは、昭和20年である。ホトトギスの西山泊雲の墓参り(昭和19年に亡くなった)と、但馬の和田...
千原叡子さんの父・安積素顔さんの作品集『十三代』を読み返していたときであった。 届いたばかりの所属結社「花鳥来」の句会報に、ホトトギスの同人でもある山田閠子さんの作品に、悼千原叡子様の詞書とともに〈明易や虚子のもとへ...
五十嵐播水について一番に思い出したことは、虚子の句集「七百五十句」の昭和29年12月19日にある〈地球一万余回転冬日にこにこ〉の句である。 播水夫妻の結婚30年の虚子からの祝句で、明るく目出度い句柄である。季題は、虚...
横光利一の俳句に出合ったのは、高浜虚子の句集『五百五十句』の鑑賞を試みていた最中であった。『五百五十句』は、昭和11年から15年の作品が収められており、昭和11年というのは、虚子が「箱根丸」でヨーロッパ旅行をした年であ...
金子光晴との出合いは、およそ50年前になる。出版界を夢見ていた夫は大学卒業後、一度は地元長崎に戻って教員をしていたが、4年後、東京に出た。 同県人の先輩、朝日新聞社学芸部の浜川博さんは、出版社の路線を決める際に相談に...
河原枇杷男氏は、永田耕衣に師事していたという。 私の所属結社は深見けん二主宰の「花鳥来」。高浜虚子の最晩年の愛弟子といわれる俳人であるが、私はホトトギスだけでなく、俳句の広い世界を見せてくれるかのように、「花鳥来」誌...
原裕は、原石鼎の実子だと思っていた。しかしそうではなかった。俳句には、偶然に惹かれたという。原裕が15歳のとき終戦を迎え、何をすればよいのか解らず、全くの虚脱状態であった。そうしたときに、書店で触れたのが「鹿火屋」だっ...
今井杏太郎の俳句は、精神科医として勤務医から貨物船の船医に転身した時に、「ホトトギス」の俳人だった船長、機関長らと船上句会をしたことに始まる。その後、医院を開業し、「馬酔木」同人に指導を受ける。「鶴」に入会したのは昭和...
大井雅人を知ったのは、蝸牛社の編集の過程では秀句三五〇選シリーズの『虫』や『夢』、そして父の書棚に、立風書房の『現代俳句案内』を見た時である。 今回読み返して思ったのは、30年前の、わさわさした筆者の私には、受け止め...
平成26年7月10日発行、安原葉の第3句集『生死海』を戴いていた。お名前と真宗大谷派紫雲山安浄寺のご住職であることは存じ上げていたが、作品は詳しくは存じてはいなかった。まず、帯に書かれている、親鸞の言葉の引用であるとい...
長崎旅行2日目も夕方となった。標高333メートルの稲佐山は、長崎港を見下ろす位置にあり、対岸の夜景が湾に映って美しく、函館、神戸とともに夜景3大スポットとして名高い。 夫の実家は島原にあり、姉夫婦は長崎市内、妹夫婦は...
8月5日、長崎旅行の2日目。平和公園、原爆資料館、日本二十六聖人の像を見た後は、夫の姉がセッティングしてくれたホテルニュー長崎の13階にある「中華料理 桃林」へ行った。見晴らしがよいのに、美味しいコース料理の合間はお喋...
昭和20年8月9日、アメリカの原子爆弾の2発目が長崎市に落とされた。広島に落とされた8月5日の1発目に続く第2発目である。昭和20年は、私の生まれた年でもあるし、戦後◯◯年といえば、即ち私の年齢となる。 今回の旅...
ブログ「千夜千句」は、基本、その日に書いている。だが、今回の8月4日から6日まで二泊三日の長崎旅行は、きちんと時系列にせずに書きはじめてしまった。 今宵は、第1日目の8月4日、夫の妹夫婦が長崎空港に出迎えてくれて、荒...
8月、急に夏休みがとれた娘から、長崎旅行の案内役に誘われた。というのは、夫は島原出身で、私も大学卒業後に出身校と同じプロテスタント系の活水女学院の高等部の英語教師として3年間、長崎市に住んでいたからである。 諫早市に...
今宵は、令和2年8月6日、私は、夫の故郷の長崎から戻ってきたばかり。五島列島まで足を伸ばすことは叶わなかったが、この旅では、彫刻家の舟越保武による日本二十六聖人記念碑「昇天のいのり」を見た。私たちは、この記念碑を「日本...
今の時代は、便利なベープマットやスプレー式の殺虫剤がある。蠅叩が家に常備しなくなって長い年月が過ぎたように思うが、蠅叩も売られている。薬品の匂いを好まない人もいるのだろう。 長い梅雨がようやく終わり、コロナは居座って...
昭和32年の7月13日から16日まで、千葉県鹿野山神野寺の夏行句会が行われた。『句日記』の15日の句は29である。この日の句会の合間、籐椅子に身をやすめているときに虹を見たことで、虚子は、虹にまつわる様々なことが泛かぶ...
千葉県君津市にある鹿野山神野寺に虚子の歯塚が建立され、昭和33年7月20日にその歯塚除幕式がとり行なわれた。 神野寺というのは、ホトトギス同人の川名句一歩(かわな・くいっぽ)や山口笙堂(やまぐち・しょうどう)がそれぞ...
『観自在』の句集を頂戴していた。まず、タイトル『観自在』の意味を調べてみた。 あとがきには、次のように書かれている。 「観音菩薩のことだという。自在に衆生の苦を察知し、それを度し合う菩薩ということかと思う。」 「...
加藤楸邨の句風とは、水原秋桜子の「馬酔木」調を脱して内面的苦悩の色を濃くしたもので、難解句と言われるようになった。「人間探求派」と名付けられたのは、昭和14年「俳句研究」8月号の座談会での発言からである。この座談会の司...
平成8年(1996)、有馬ひろこ氏の第1句集『ザビエル祭』が富士見書房から出版された。その折に、私は「花鳥来」で句集評を書かせて頂いたが、高浜虚子―山口青邨に連なるという同じ系列にいても、これほどに作品の詠み方が違うこ...
昨日、岩手県北上市の詩歌文学館館報「詩歌の森」第89号が届いた。ここへは、「花鳥来」と「屋根」の合同吟行で訪ねたことがあった。岩手県には石川啄木や宮沢賢治がいる。辺りから風の又三郎が出てきそうな中をゆくと詩歌文学館の一...
平成31年、俳人協会の自註現代俳句シリーズ『小圷健水集』が出版された。 健水さんが、深見けん二に師事したのは、昭和47年、同じ勤務先の日本工業中央研究所の俳句部に入部したことに始まる。平成元年に深見けん二主宰の「F氏...
虚子が亡くなったのは昭和35年の4月8日、戒名は「虚子高吟椿寿居士」。その2日前の6日、宝生流能楽師・高橋進(俳号・すゝむ)や安倍能成が見舞ったとき、虚子の妻・いとの頼みで虚子の枕頭で謡ったのが虚子の好きだった「鞍馬天...
平成3年、深見けん二は、師山口青邨の没後に「F氏の会」から発展させた「花鳥来」を創刊主宰した。その後間もなく、小句会の1つとして「青林檎の会」が始まった。 けん二先生のご指導の下で、楽しく厳しく、俳句に関して何でも意...
私にとって山口青邨を身近に感じたエピソードが一つある。 「明日開きます。見にいらっしゃいませんか。」という、佐々木邦世ご住職(現中尊寺仏教文化研究所所長)のお電話を戴いた夫と私は、真夜中に東北自動車道を飛ばした。 ...
昭和26年2月1日、虚子庵を訪れた下田実花一行というのは、前年の昭和25年10月に発足した「艶寿会」のメンバーであった。ホトトギスの小句会「艶寿会」の会員は、新橋の芸者仲間の小くに、小時、下田実花、武原はん、歌舞伎役者...
『実生』は、『立子句集』『続立子句集』『笹目』に続く第4句集である。まず、父高浜虚子の序文に驚いた。それは、立子が俳誌「玉藻」の主宰となって以降、虚子が「玉藻」主宰者としての立子の成長を祈るような思いで、毎月欠かすこと...
東都書房から、昭和30年刊行の『虚子俳話』と昭和35年4月8日刊行の『虚子俳話』(続)があり、続篇には、晩年の紀行・随筆が転載されてある。 一つは、随筆「私─(家)─」中の、昭和34年の1月、改築を終えた書斎の机に向...
虚子の俳句人生には折々に絵巻物のような出来事があったが、長生きした人の晩年というのは、そこに関わった人たちが本人より先に亡くなってしまうことでもある。 第5句集「七百五十句」では、虚子はさまざまに過去に思いを馳せてお...
虚子の第5句集「七百五十句」は、虚子の没後に長男高濱年尾と次女星野立子によって句を選ばれている。昭和26年虚子78歳から昭和34年3月30日まで、虚子が最後の「鎌倉句謡会」を終えて、その日の句を「句日記」に書き留めた作...
これまで井沢正枝の作品にじっくり触れることはなかった。今回、牧羊社の『現代の女流俳人Ⅰ 別冊俳句とエッセイ』を久しぶりに開くと、一人目が井沢正枝であった。 穏やかな詠みぶりであり、言葉がうつくしく、一歩深く入り込んで...
好きな虚子の作品を問われると、優に100句は超えるから一つを選ぶことは難しい。 夏になると、木蔭や藪や家の軒端やら、人間も蜘蛛の囲にかかってしまいそうである。生物はみな何かを食べて生き延びている。人間だって豚肉やら牛...
高木晴子は、高浜虚子の8人の子の5女である。姉の星野立子が病に倒れてから「玉藻」の選者であった晴子は、「玉藻」の企画「虚子先生曽遊地めぐり」でヨーロッパへ3回の吟行の旅をした。昭和53年、3回目はロンドンで、キューガー...
青柳志解樹氏は、「自然(しぜん)即自然(じねん)」を創作理念として作句しているという。「自然(じねん)」とは、仏教の言葉であり、万物は因果によって生じたのではなく、現在、あるがままに存在しているものだとする考えである。...
「巴里祭」とは、1789年7月14日のバスティーユ襲撃、翌1790年の建国式典(建国記念日)など、フランス革命記念日にあたる7月14日のフランス国民の祝祭日を、日本では「パリ祭」と呼ぶようになった。楠本憲吉の詠んだ〈汝...
相生垣瓜人の俳意を理解できるようになるには、も少し年月が必要な気がしているが、自然を詠みながら、自然を擬人化するのではなく、自然にここまでと思うほどに寄り添い、一途に客観的に凝視する。〈死に切らぬうちより蟻に運ばれる〉...
斎藤空華は、2度召集された戦地から帰還して間もなく療養生活となった。 私が10歳の頃に、故郷から再び上京し、戦後の貧しさの中で働き詰めだった母は、肺病となり江古田の国立中野療養所に入院した。祖母が上京して、父と私の面...
私が、小学校から中学校の初めの頃、昭和35年くらいまでであったと思うが、日曜日は中野にある絵画教室に通っていた。中央線に乗ると八王子にはアメリカ軍の基地があるからか、普段は見かけない黒人兵がいた。手の甲の黒さと手のひら...
土生重次には、俳句結社「扉」の主宰者として折々の指導語録がある。 その一つ、「ヤキモチは作品に」を紹介してみよう。 人は人に対してヤキモチをやきます。「扉」に集まる人は「作品に対してヤキモチ」をやいてもらいたい...
俳句では「七夕」は秋の季題であるが、子どもたちは、幼稚園や学校で教わるからか7月7日に七夕飾りをする。我が家ではもっと小さい頃から、こうした行事の度に、やんちゃな年子が夢中になれる時間を作った。つまり、テーブルの上で折...
平成5年、岡井省二氏は、新刊の第8句集となる『猩々』をお贈りくださった。表紙は能面の「猩々」、能の「猩猩」で付ける面で、童子の面を赤く彩色したもの。今から30年も昔の頃である。真赤な能面の表紙は強烈な印象として覚えてい...
平成23年、あらきみほ著『図説・俳句』は、深見けん二推薦として出版した。先生は、「公平に、俯瞰的に、子規以後の現代俳句の流れをかくことに成功した書として、この本を推薦いたします。」と、序文に書いてくださった。 筆者の...
前夜に続いて、私の読む力を試されそうな難解な俳人を選んでしまった。 蝸牛社刊『秀句三五〇選 夢』で見つけた作品は〈昼顔の見えるひるすぎぽるとがる〉である。解釈をしようとするとうーんと考えるが、漢字とひらがなとのバラン...
『秀句三五〇選 夢』を眺めている中に 、橋閒石の作品〈雪山に頬ずりもして老いんかな〉を見つけた。後期高齢者のなりたてであり「老」を考えてはいるが、一方で「夢」を未だ追い続けたいという最中でもある私は、橋閒石の「雪山に頬...
鷲谷七菜子先生から戴いていた、句集『一盞(いっせん)』(平成10年刊)を久しぶりに繙いてみた。あとがきには、句集名を『盞一』とした訳を、「〈一盞のはや色に出し夕霧忌〉のほのかな艶のこころを失いたくない思いがあったことも...
林翔(はやし・しょう)は、能村登四郎と同じ國學院大學の同窓であり、卒業後に勤務した市川高等学校も一緒、俳句の歩みも水原秋櫻子の「馬酔木」から始まり、登四郎が「沖」を創刊してからは登四郎が亡くなるまで70年近く俳句の道を...
平成元年、私は、NHKカルチャーセンターで深見けん二教室で学び始めていた。けん二先生は、いきなり句会を始めるのではなく毎回、高浜虚子と山口青邨、また当時活躍されている作家の作品を20句ほどコピーをして説明をしてくださり...
深見けん二(ふかみ・けんじ)の第8句集『菫濃く』は、平成20年より24年夏までの409句を収録。この句集により第48回蛇笏賞を受賞された。当日の作品〈その夜や春満月を庭に見て〉から喜びが伝わってくる。(『菫濃く』以後)...
お写真で拝見する大木あまりさんは、いつも永遠の少女のような印象である。 蝸牛社で『秀句三五〇選』というテーマ別のシリーズを発刊したとき、第一期12巻にテーマ詩をつけてくださっていた。 一部だが、第4巻「愛」から紹介...
黒田杏子先生は、山口青邨の弟子。昭和63年に青邨が亡くなられた後、「夏草」会員は、「天為」「藍生」「屋根」「花鳥来」の4つの結社に分かれた。しかし兄妹結社という思いを、私の所属する深見けん二の「花鳥来」の誰もがそうした...
安東次男は、加藤楸邨の「寒雷」の草創期から投句をしているが、詩人として、芭蕉や蕪村や一茶を研究した評論家として、またフランス文学の翻訳家としても活躍していて、再び俳句へ戻るのは、平成2年の頃である。「寒雷」では、傍から...
鍵和田秞子先生に初めてお会いしたのは、平成12年12月9日のBS放送「俳句王国」へ出演したときで、その日の「俳句王国」の主宰であった。本番は翌日だが、前日からNHK松山で、顔合わせ、リハーサル、懇談会があった。隣合わせ...
岡本眸氏の作品に初めて触れたのは、〈桃ひらく口中軽く目覚めけり〉であったように思う。改めて戦後の現代俳句の秀句がテーマとなった書籍を見ると、どの書物にも登場している。 「俳句は日記」であるという信条を持つ岡本眸は、日...
緒方輝(おがた・てる)さんは、石寒太主宰「炎環」の小句会の一つの「石神井句会」で、6年ほどご一緒させて頂いた方である。私たちより、すこしご年配だったように記憶している。穏やかな方で、熱心な方で、いつも句会ではよい作品を...
3日続けて、俳誌「阿蘇」の方々の作品に触れることになった。きっかけは「阿蘇」と「花鳥来」に所属している友人から、1000号記念として刊行された『俳誌「阿蘇」合同句集』を頂いたことである。第百七十夜の、『虚子俳話』と並べ...
岩岡中正さんの、結社「阿蘇」も俳句の背景も、同じ九州人だからかもしれないが、長崎県生まれの夫と大分県生まれの私にとって、どこかしら懐かしさを感じながら拝見していた。 もう一つは、岩岡中正さんの著書『虚子と現代』にある...
宮部寸七翁を最初に知ったのは、田辺聖子著の『花衣ぬぐやまつわる・・』の中の杉田久女が熊本在住の中村汀女に会いに行く場面であり、句集『中村汀女 星野立子集』の三橋敏雄の解説の中であり、竹下しづの女の文章の中であった。 ...
宇佐美魚目の俳句に、私は長いこと近づくことができなかった。抽象絵画の前に佇って、強烈な美を感じ、引き込まれるような強さを感じるのだが、言葉が出てこない、鑑賞などとてもできない、そのような気がしていた。 今宵は、意...
石田郷子さんは、山田みづえ主宰の「木語」で学ばれた方であること、俳句雑誌でオフロードバイクに乗って一人で吟行に出るという写真と記事を拝見したことを思い出しながら、「千夜千句」を書いている。 私は車でなら、大型犬を横に...
「馬酔木」を去った大島民郎は、堀口星眠の「橡」に参加して、堀口星眠や相馬遷子たちとともに軽井沢を吟行し、高原俳句を切り開いた。 東京生まれの民郎だが、軽井沢での作品づくりが、のちに奈良に移り住むきっかけとなったのだろ...
寺井谷子さんの作品で一番先に覚えたのが、次に紹介する「蛍の夜」である。俳句を始めて、俳句を詠むときは必ず「季題」を自分の目で見るようにと指導された。というよりも、次の句会までに「蛍」の兼題がでると、矢も盾もたまらずに見...
私が小川芋銭を知ったのは、俳句文学館で見た俳誌「ホトトギス」であった。明治44年から45年(大正元)の一年間は、芋銭の飄逸な河童の表紙絵で飾られており、誌面にも芋銭の挿絵が何枚かちりばめられていた。明治45年1月号には...
もう30年ほど前のことになるが、私は、「鷹」の祝賀パーティーに蝸牛社の荒木の代わりに出席した。この日、「花鳥来」の吟行句会から直接、深見けん二先生とご一緒した。「みほさん、着替えないの?」と言うや、けん二先生は駅の待合...
片山由美子さんの作品に面と向き合うのは、今回が初めてかもしれない。手元にあるのは第2句集『水精』と第4句集『風待月』と第5句集『香雨』と、平成7年刊の対談集『俳句の生まれる場所』である。 対談集を読み直した。片山由美...
秋山トシ子さんは、平成3年、深見けん二先生が創刊主宰された俳誌「花鳥来」に参加して以来の句友である。お互いに、「花鳥来」役員をしていたこともあって、先生を囲んでの会合でもよくお会いしていた。穏やかなお人柄は会員の皆から...
石井ひさ子さんは、石寒太主宰の「炎環」に所属されていて、その中の小句会「石神井句会」でご一緒した方である。私よりずっと年配で、何でも知っている素敵な先輩だが、同じ年に「炎環」同人となっているので、同級生の気分もある。 ...
平成元年、蝸牛社のテーマ別アンソロジー『秀句三五〇選4 愛』は、山本洋子さんの書き下ろしである。あとがきには、「与えられたテーマ〈愛〉は、私をおじけつかせた。最も苦手な命題。しかしまてよ。この際この〈愛〉に挑戦してみよ...
今井千鶴子さんは、平成元年に、私たちの師の深見けん二と藤松遊子と3人による季刊の個人誌「珊」を創刊した。藤松遊子さんは歩み半ばで亡くなられた。その後に、「夏潮」主宰の本井英さんが入られている。 数日前に届いたばかりの...
昭和63年12月に亡くなられた山口青邨の「夏草」門下は、一年を置いて、有馬朗人は「天為」、黒田杏子は「藍生」、斎藤夏風は「屋根」、深見けん二は「花鳥来」という4つの結社に分かれて主宰者となった。 有馬朗人氏は、世界的...
『寺田寅彦随筆集』の「からすうりの花と蛾」を読んだ私は、いつしか「烏瓜の花」を絶対に見たいと願うようになっていた。俳句の仲間を牛久沼を案内したときだ。この沼の高台にある小川芋銭居の入口で夕暮れを待った。 とうとう、レ...
平成7年(1995)刊行の『蝸牛 新歳時記』の編集作業の折、天文の季語「秋」に置かれた〈秋を病みやさしくなるは恐ろしき〉の句を見た瞬間、心にすとんと何かが響いたことを覚えている。当時、北九州市で俳誌「天籟通信」を主宰さ...
蝸牛社で出版した『碧梧桐全句集』編集に携わったのは、私が、虚子に連なる深見けん二に師事をはじめて数年後であった。 河東碧梧桐を師系とする作家瀧井孝作(俳号折柴)氏の次女・小町谷新子さんのご縁で出版の話が決まった。お預...
今宵は、檜紀代さんの『花は根に』から紹介させていたくことにする。本書は、蝸牛社の「俳句・背景」シリーズの14人目。33のテーマによる俳句と随筆のコラボレーションの中で、心の内を他人には覗かせないという作家もいれば、間近...
もう30年近く前になるかもしれない。ある結社の祝賀パーティーで藤木倶子さんは、「次に東京へ来たときにはお会いしましょう。」と夫に言い、ひと月後にお電話があったので、私も一緒にホテルのロビーでお会いした。そのときに戴いた...
大牧広氏の編著に、『秀句三五〇選 港』(蝸牛社刊)がある。あとがきには、「この三五〇句を鑑賞するに当たっては単なる客観に終始するのではなく、あくまで〈人の世の港〉という座標軸を据えて書くべきだと思っていた。」と、書かれ...
今宵は、『伊丹三樹彦全句集』から、第5句集『夢見沙羅』の花の作品を紹介してみよう。全句集を、久しぶりに読み返してみると、第一句集『仏恋』、第二句集『人中』の作品は「分ち書き」ではなかった。 あとがきに、「俳句を人間採...
プロフィールを調べていると、倉橋羊村氏は青山学院大学の大先輩であると知り、そして今年、令和2年2月11日にお亡くなりになられていたことを改めて知った。倉橋羊村氏の作品から仏教にかなり造詣が深い方であることは感じていたが...
もう30年以上も前になるが、宮坂静生氏は『秀句三五〇選21 虫』の編著者をお引き受けくださった。お忙しい先生は、原稿を書き上がった順に何回かに分けてFAXで送ってくださるが、当時のFAXは今ほどのスピードはなくて、一枚...
加藤耕子さんは、俳誌「耕」とともに英文俳句雑誌「Ko」の主宰を続けてこられているが、「Ko」に載せた日本語の俳句を英語に翻訳されたものが、アメリカやカナダで好評を博しているという。 今回、『花神 現代俳句 加藤耕子』...
稲田眸子さんの第二句集『絆』(花神社刊)から、夏の作品を紹介させていただこうと思う。 まくなぎの無数の影を薙ぎ払ふ 平成4年、蝸牛社のテーマ別アンソロジーの31巻『秀句三五〇選 影』の編著者としてお会いした...
平成26年7月、深見けん二の先生の「蛇笏賞」受賞の祝賀会が池袋にあるメトロポリタンホテルで行われた。長谷川櫂さんは、「深見先生、俳人としての最終目標が蛇笏賞受賞ではありませんよ。どうぞ益々お元気で、よい作品を見せ続けて...
終戦になった昭和20年に小説家の大仏次郎が、まだ疎開していた小諸の虚子を訪ねてきた。「朝日新聞の東京版に俳句を募集することにしようと思うのだが、その選をしてくれないか。」といった話だった。後に、募集句に評を加え、小俳話...
蝸牛社刊『俳句・背景17 おはいりやして』から、紹介させていただこう。このシリーズは、33テーマによる俳句と随筆の愉しい競演を意図したシリーズである。右ページに5句、左ページには右ページの作品の背景をお書きになる方が多...
月を眺めることが大好きである。満月の出は早いし、夫は、この時間帯は既に晩酌の一杯が入っているから月見の誘いに応じてくれない。黒のラブラドールレトリバーの一代目のオペラを番犬として、人っ子一人いない牛久沼の月見のポイント...
私が日々使う歳時記は、虚子編『新歳時記』、『蝸牛 新季寄せ』、平井照敏編『新歳時記』全5巻の3点である。平井照敏は『蛇笏と楸邨』所収「歳時記問題始末」に、「私は自分の歳時記(河出文庫版『新歳時記』)に本意の項目をつけた...
第一句集『虹の種』は、俳句を始めた19歳から28歳までの10年間の作品であり、その間には震災、大学、大学院卒業、就職、結婚があり、長男誕生のこの春に『虹の種』の刊行となった。 鑑賞を試みてみよう。 息継いで母は月...
坪内稔典さんには、まだ元気だった頃の出版社蝸牛社では、俳句背景シリーズの『縮む母』の著者、『一億人のための辞世の句』全3巻の編著者、また「船団の会」の若い俳人の「七つの帆」コレクションの7冊の句集出版など、様々にお世話...
中嶋隆さんとは、ある時期、石寒太主宰の「炎環」でご一緒していた方である。人生の大先輩であるが、同人同期ということから、どこか同級生の気持でつき合わせていただいている部分があった。句会へはいつも、美しく静かな奥様とお二人...